『風の十二方位』アーシュラ・K・ル・グィン

『風の十二方位』アーシュラ・K・ル・グィン

ル・グィンの傑作長編「闇の左手」「所有せざる人々」「ゲド戦記」のサイドストーリーを含む短編集。これらのファンにとっては嬉しい一冊である。「冬の王」が「闇の左手」、「革命前夜」が「所有せざる人々」、「開放の呪文」「名前の掟」が「ゲド戦記」にそれぞれ対応した作品である。

「冬の王」は王の放浪と帰還、そして親子の闘争へ至る物語。短編ではあるがサーガ的重厚感を備えた一篇である。

また、「革命前夜」はあのオドー本人の物語である。革命とは何か、思想はいかなる形で次世代に伝わるものかが描かれる。しかし、これが老境における物語になろうとは想像もしていなかった。気持ちよく裏切られた。

もちろんそれ以外の作品もすべて満足度が高い。特に「オメラスから歩み去る人々」は、社会と倫理の関係を痛烈にうがったものである。彼女がただのファンタジー・SF作家にとどまらず、思想家としての側面が大きいことがうかがえる。

ル・グィンの評論も読みたくなった。また、ル・グィンを論じた多くの評論があるらしく、これも読んでみたくなった。


『天のろくろ』アーシュラ・K. ル=グウィン

『天のろくろ』アーシュラ・K. ル=グウィン

夢を見ることによって現実改変ができることに気づいた男がその能力に畏れをいだき、様々なトラブルに巻き込まれるというプロット。

この小説以前にも以後にも多くの同様の物語が生み出されている。まさにあの手この手とあるのだが、私が最も感心したのはイーガンの「宇宙消失」だった。夢や無意識によって現実がみるみる形態を変えていくというダイナミックなシーンはどちらにもある。

しかし、この小説の読みどころは、そうした派手な演出よりも主人公の静かなたたずまいではないか。ル=グウィンの主人公はどれも同じく、内面の葛藤を抱えており、それを決して外部に責任を探すことをしない。そして彼に関わる者はいずれも反発しつつも惹かれていく。

どこかにル=グウィンの小説作法として、先ず主人公の外観を想像する、と書いてあった。彼女のいずれの小説でもこの静かな、悩み多き、かつ強き者の姿を読むことができる。それが読者としての最大の歓びであろう。


『所有せざる人々』アーシュラ・K・ル・グィン

『所有せざる人々』アーシュラ・K・ル・グィン

堂々たる古典文学、教養小説である。本書で語られるテクノロジーや社会論は現代となっては古めかしい議論であり小説の背景に過ぎない。しかし、それでも本書は全く価値を減じることがない。

この小説を読んでいるとトーマス・マンの『魔の山』が常に思い浮かんだ。『魔の山』でもアナーキズム、共産主義、資本主義などの社会論がさかんに論じられた。本書では惑星ウラスとアナレスの制度の違い、そしてオドー主義とは?か。そして本書にもヴァルプルギスの夜がある。

ひとりの男がいて、その仕事がある。妻や子どもがいて友人や仲間がいる。敵も陰謀もあり、暴力にもさらされる。父は縁が薄く、母は敵対する。旅立ちがありそして帰還もある。そうした、ひとりの人間が人生を通じて迷い、そして成長することが描かれる。これこそが小説ではないだろうか。

いまどきの入り組んだ仕掛けばかりの小説を読んでいると、本来の小説とは何かと迷う時がある。そうした時は常に古典に向き合うべきと思う。

考えてみると高齢になってもまだ読んでいない古典文学がたくさんある。そうすると新しい小説を読まなければならないどんな理由があるのだろうか、とふと思う。

追記:本書をユートピア論から読み解く論文もあった。「ユートピアの実践」高橋一行


『近畿地方のある場所について』背筋

『近畿地方のある場所について』背筋

ネットコンテンツやホラー雑誌の記事を素材としたホラー小説。色々な人がそれぞれ別のことを話しているのに、結局ある場所についてのことであった、という構成。全体構成や結末よりも個々の記事にゾッとするものが多かった。

本書とはずれるが、ネット文化は日本人の言葉を操る能力を開花させたのではなかったのかとあらためて思った。こんなに多くの人がこんなに大量の文章を生成している時代はかつてなかった。それが今後どんな時代を創っていくのか極めて興味深い。


『動物農場』ジョージ・オーウェル

『動物農場』ジョージ・オーウェル

1984年当時はこちらの方が『一九八四年』よりも評価が高かったのはなぜだろう。レーニン批判とソ連への幻滅が顕になった時期だったからか。今日ではSFの文脈とMacintoshのCMのせいかこちらを知らなくても『一九八四年』は知っている者は多い。

読んでみると確かにすべての革命への幻滅という意味で、ロシア革命のみならず普遍的な内容である。しかし、重厚さ、熱意という意味で後者が勝る。それが読んでみての感想である。

1984 Apple's Macintosh Commercial (HD)


『闇の左手』アーシュラ・K・ル・グィン

『闇の左手』アーシュラ・K・ル・グィン

古典SF(1969年刊)の名作中の名作。古典とはいつ読んでもあらためて感動を得られるものと認識した。

遥かな未来、はるかな遠くにある惑星。ここに人類の末裔の文明があり、その閉ざされた社会へ人類の使節が交易を求めてひとり降り立った。しかし、その人類は雌雄同体であり、その生理機能によって成り立つ社会もまた異様なものであったというプロット。

本書はその文明や社会の成り立ちをいち異人として体験し記録するという部分が素晴らしい。また、章間に挟まれる伝説物語も興味深い。そして何よりも異なる文明同士の人間が誤解し合い解釈を違えたりする。しかし、やがては個人間の相互理解の深まりを暗示させる長い道行きの物語が感動的である。

しかし、この小説で本当に重要な要素は、違う文明が理解し合うことの困難さを小説という手法を駆使して表現していることだろう。固有名詞はもちろん、暦や時間の表現、ゲセン人のそれぞれの生理現象についての言葉、意識、宗教についての言葉が小説中に遠慮なく放り出される。

そこに、そもそもひとつの文明について理解することは簡単なことではない。読者もそれなりの苦難を分け持つべきだとの作家としての意識が感じられる。そして、本書の作者が小説の手法によって、そのことを伝えようとする苦難そのものが本書の読みどころではないだろうか。

異世界モノがお手軽に作品になる今日、都合のいいフレームワークとしてそれを利用しているものが多く、文明理解そのものへの取り組みが見られない。それでいいのだろうかとは思っている。

ところで、古典作品では当時読んでも深く響いてこなかったことが今日の視線では大きな声になっていることに気づくことがある。本書で言えばジェンダー意識である。

ゲセン人は雌雄同体であり、月のうち何日か交接可能な期間(ケメル)がある。それ以外は発情状態にならない。常時発情状態あるわれわれは彼らにとっては「変態」なのだ。

そして、ゲセン人はそのケメル期に男性となるのか女性となるのかを選ぶことはできない。よってすべての人間に母親として妊娠する可能性があり、また父親になる可能性がある。

このような人類によって構成される社会はいかなるものなのだろうか。まさにSF的テーマ設定であり、その考察も知的満足を満たしてくれるものである。

その考察については詳しくは書かないが、極めて今日的ジェンダー課題の設定である。本書が1969年に書かれたことに驚くばかりだ。


『一九八四年』ジョージ・オーウェル

『一九八四年』ジョージ・オーウェル

1949年の出版以後、多くのディストピア小説や映画があったので既視感すら覚えるが、こちらが本家本元。すべてはこの小説から始まった。

プロパガンダと市民監視の道具である「テレスクリーン」。強制ではなく自ら望んで熱狂する「二分間憎悪」。子が親を告発する社会。こうした息詰まる監視社会の描写は、現代史のひとコマであり、今日の日常であることに慄然とする。

いわく、街にあふれる監視カメラ、インターネット、ヘイトスピーチ、カンボジアのキリングフィールド、中国の文化大革命。これらはすべてこの小説以降の出来事なのだ。

この小説のテーマは「権力」である。そして「記録の改ざん」であろう。記録を修正すれば事実を変えることができる。物理現象も変えることができる。科学でさえも変えることができる。

米国発の「フェイクニュース」といいう言葉を挙げるまでもなく、日本でも森友学園・加計学園事件で官僚による記録改ざんがあったことを思い出す。政治家の指示によって官僚が事実を改ざん・隠蔽するというのが珍しいことではないのが今日の日本社会だ。

なのでオーウェルが描いたディストピア・悪夢の社会が、ことごとく現実となっていることをあらためて認識する、そのためにも本書は読まれ続けなければならない名著である。

ところで、第二章にあるゴールドスタインの論文「寡頭制集産主義の理論と実践」の長々とした引用は権力者による社会管理の指南書として秀逸である。ここで主に語られているのは、権力者が戦争の危機を社会管理にいかに活用するかということだ。これは権力の暴力を現場で体験し続けてきたオーウェルの彗眼であろう。

(前略)そのような国家の支配者達は、古代エジプトの王やローマ皇帝以上に専制的である。彼らは、不都合を生じるほど大量の民衆が、飢えによって死ぬといった事態を防がねばならないし、ライバル国と同程度の、低い軍事技術を保たねばならない。だが最小限の条件が達成できれば、後は好きなだけ現実を歪曲できるのである。

従って、過去の基準から判断するならば、現在の戦争は単なる詐欺行為に過ぎない。それは譬えて言うなら、相手を傷つけえない角度に角を生やした反芻動物同士が戦っているようなものである。そうした戦争は、現実味に欠けるかもしれないが、無意味ではない。消費物資の余剰を使い果たし、階級社会が必要とする特殊な心理的環境を維持する役目を果たしてくれる。いずれ判明するだろうが、戦争は今では純粋に国内問題なのである。過去には、あらゆる国の支配集団は、たとえ自分たちの共通利害を悟り、それ故戦争による破壊を制限したとしても、互いに激しく戦い、勝者は必ず敗者の略奪行為に及んだものだ。我々の時代にあっては、そもそも国同士が戦いを交えていないのだ。現在の戦争とは、支配集団が自国民に対して仕掛けるものであり、戦争の目的は、領土の征服やその阻止ではなく、社会構造をそっくりそのまま保つことにある。従って、「戦争」という言葉自体が、誤解を招いてきた。継続化によって、戦争は存在しなくなったと言った方が正確かもしれない。新石器時代から二十世紀初頭にかけて戦争が人間に与えてきた特殊な圧力は消滅し、まったく違ったものに取って代わられた。たとえ三つの超大国が、争い合う代わりに、恒久的な平和のなかで生きていくということで意見の一致を見、互いに相手国の領地は侵犯しないようにしたまぬかところで、結果は大して変わらないだろう。なぜなら、そうした場合でも各国は相変わらず自己充足的な世界として留まり続け、外部からの危険という浮かれた頭に冷水を浴びせるような事態からは、永遠に免れているからである。真の恒久平和とは、永遠の戦争状態と同じということになるだろう。これこそが、戦争は平和なりという党のスローガン―――大多数の党員は、ごく表面的な意味でしか理解していないが―――の隠された意味なのである。


『地下鉄道』コルソン・ホワイトヘッド

『地下鉄道』コルソン・ホワイトヘッド

19世紀初頭、奴隷制度下のアメリカで奴隷である少女コーラの過酷な逃避行を描いた小説。現代のアメリカ文学である。

奴隷であることについては大量の映画、ドラマ、ルポ、ドキュメンタリーがあるが、小説は一体化、没頭感という強みがある。

奴隷として生まれたこと、自由な身分から奴隷になること、そしてそこから逃走するということ。小説を読むという行為はそれを精神的に体験することでもある。この小説はそうして体験するべきものである。

「地下鉄道」という組織や制度のことを地下を走る実際の鉄道路に見立てては小説の組み立てとして秀逸。

それにしてもあまりにも悲惨な黒人奴隷の時代を描くと、どうしても語り口が神話的雰囲気を帯びてしまう。それは現代の作家の性なのだろうか。


『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』吉田裕

『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』吉田裕

日本軍および将兵の研究書は多くあり、この本も特に新しい調査・研究成果があるわけではない。しかし、繰り返しこの無意味な悲惨を語り続けることにこそ価値がある。「本当は強かった日本軍隊」がまことしやかに受け止められている現代にこそ。

戦病死と餓死、海没死と特攻、自殺と処置、兵士の体格、病んでいく精神、装備・銃器・戦車の彼我の差の拡大、当局の対応の不在、時代遅れの通信機器。特に虫歯の件は壮絶。

「行軍中、歯磨きと洗顔は一度もしたことがなかった。万一、虫歯で痛むときは、患部にクレオソート丸(現在の正露丸)を潰して埋め込むか、自然に抜けるのを待つという荒療治である。(後略)」

実証的調査研究から明らかなこれらの事実に現在の「夢見る者たち」はどのように答えているのだろうか。

むしろそれら、単純に見たくないものを見ない、なかったことにする現代の「夢見る者たち」の精神構造こそ興味深いのではないかと思う。


『DOPESICK アメリカを蝕むオピオイド危機』ベス・メイシー

『DOPESICK アメリカを蝕むオピオイド危機』ベス・メイシー

ペイン・キラー/死に至る薬』を観て読むことにした一冊。オピオイド危機の導入からパデュー社裁判の判決、さらに今日になっても未だ終わらない危機と悲劇についても取り上げている。

特筆すべきなのは、薬物依存治療として「ハーム・リダクション(被害の低減)」を挙げていること。

治療に当たってはかつてナンシー・レーガンが言った(Just say no)、薬物を一切断つという方法は、実は効果が低いことが支援者の間では認知されている。

つまり適切な薬品を適度に摂取しながら社会復帰を目指すべきとの考えで、これが一般的になりつつある。しかし、まだ一般社会では否定的な見方もすくなくないとのこと。

ところで、本書にあるように米国の製薬会社のマーケティング手法には決定的に倫理観が欠けていると言わざるを得ない。

製薬会社の営業担当は「最近工場が閉鎖し、失業者の多い地方」「その地方の医師」をターゲットに営業攻勢をかけるべきとしている。つまり、失業者は習慣性ある麻薬依存者として最適な対象であるという意味だ。これはまさに、企業による麻薬ディーラー事業ではないか。

これが資本主義の行き着く果であれば米国社会は紛れもなく最先端を行っていると言える。

偶然YouTubeでフィラデルフィアの街角を毎日レポートしているチャンネルを見つけて定期的に見ているのだが、その荒廃ぶりに愕然とした。これが薬物蔓延の日常である。

What happened today? Streets of Philadelphia, August, 2023. True story.