あいちトリエンナーレ2010 納屋橋会場
この会場は閉鎖したボウリング場。しっかりした建物なのにもったいない。作品は国内外の映像が中心。
山下麻衣+小林直人の世界中のいろんな川でボートを漕ぐ作品は気分がよかった。小泉明郎の作品はテレビドラマのシーンが浮かぶようなものでいまいち。小金沢健人の筆遣い映像はリズムとシズル感が心地良い。しかし音楽がマッチしすぎ。もう少し余白が欲しかった。
カーメン・ストヤノフのヘンなオジサンのアジ演説には引き込まれた。これも作家がこの街に来て、よく歩きまわって、相手とじっくり話しあっての成果だと思う。
トリエンナーレはアートの現在を概観させるものだと思うが、こうして映像作家が行く先々でじっくりと土地に関わって作っていくことがひとつの流れだとすると、こうした新しい「旅するアーティスト」のありようは好ましい。
どこに行こうが自分の作品を設置するだけ。あるいはネットを通じて人と関わるのに一生懸命。そうした作家のありようを軽やかに否定しているようです。
孫原+彭禹のテラスは退屈。お金かかってて、何かがありそうなんだけど、結局、何かがありそうな気配だけが伝わってくる作品。もうキュレーターも観客もこうした思わせぶりに付き合う必要はないと思うのだが。
見ることができなかった作品だけど、ボリス・シャルマッツの映像作品はよさそうだった。1時間の作品をたったひとりのためだけに上映する。だから一日に7人だけしか見られない。しかも有料でトリエンナーレとは別料金。こういうハードルの高い作品は大規模美術展のどこかになくてはね。
楊福東(ヤン・フードン)の作品は18:00からということで夕方再訪。
元ボウリング場のホールにスクリーンが9個、フィルムプロジェクターが18個、撮影技師がそこら中動きまわって、観客もあちことと動きながら見るもの。映されるのはモノクロ・サイレントのアクション・ラブストーリー(らしき)映像。
アジアの作家はなぜか映画、しかもクラシックな映画をモチーフにする人が多い。映画とか映画館とかに共通の文化的バックグラウンドがあるのかもしれない。
こうしてプロジェクターのカタカタいう騒音に包まれ、暗い部屋で多くの人がスクリーンをじっと見ている会場の様子を眺めていると、映画館という空間のあるべき形を思い出す。この会場の状態こそがこの作家の作りたかったものだったのかなと思った。