[かがやきの瞬間]ニュー・スナップショット@東京都写真美術館
[かがやきの瞬間]ニュー・スナップショット@東京都写真美術館
先日、ユミコ チバ アソシエイツで聞いた話につられて、これまたいそいそと恵比寿まで。
これは若手作家のグループ展で、ゾーンごとに区切って一人ひとりの作品をじっくりと見せる構成。
最初の部屋は中村ハルコ。イタリア、トスカーナの農家の風景。誰が見ても心地良くなる映像が並ぶ。
次の小畑雄嗣は多分ロシア。その凍てつく夜のアイススケート場をモノクロで切り取っている。
結城臣雄は東京下町のノスタルジーあるヒトコマを器用に撮影している。
と、ここまではやや退屈。
写真展には絵画展の展示室に入った瞬間の、わっとした華やかさがないことが多い。それは何故なんだろうと考えた。
多分、同じサイズのプリントや額縁が整列してならんでいることが多いから。
個々の写真の是非はともかく、写真展は空間構成に配慮がないことが多いのではないか。この3人はそうだった。
しかし、その次の部屋ではそれが満たされた。それが今回の目的の山城千佳子。
タイトルは「聞こえる唄」。キャプションによると前作「沈む声、赤い息」の続編らしい。
前作は聞こえ難い老婆の声と海底につながれたマイクロホンの束が、逃れがたい歴史の記憶を象徴するような映像作品だった。
今回は舞台を森に移し、山城には珍しい純粋な写真作品。
木々の葉影に見え隠れする女性の顔はほほえみに輝き、老婆も満たされたかのように安心して地面に寝転んでいる。そして、瑞々しい肌と老いた肌は交歓するように日差しを浴びている。
森にいる女たちは笑っているのか、眠っているのか、そもそも何人いるのか。光と陰に見え隠れする映像を探っているといつの間にか森の神々に惑わされているように感じてくる。
大小のパネルを意図的に上下に並べ、床にはプロジェクターの映像が映し出され、展示空間も幻惑的。
今回の作品は、山城の従来のテーマである沖縄の社会、政治への問題意識とは乖離したような印象を受ける。しかし、それはさておき私は素晴らしい作品群だと思った。
その次の部屋の白井美里の、米国のキッチンにあふれかえる炊飯器や日本食材は、自分の滞米期の記憶を刺激した。
池田宏彦作品はイスラエルのキブツでの生活体験で撮影したもの。自然も人物もその行動も興味深い。しかし、エキゾチシズムは感じても惹きつけられるほどではない。
写真は撮影する者と撮影された対象との距離・関係を読み取るもの。
そして、鑑賞する自分と撮影された対象との距離や関係を読み取るものでもある思う。
その点ではスナップは、スタジオ写真など用意万端で撮影されるものより、何が出てくるかわからないという点で面白いはず。しかし、今回の作品からはそうした偶然性の楽しさは薄かったように思う。
私がもう一度見たいと心から願っている写真展に、IZU PHOTO MUSEUMがジェフリー・バッチェンをキュレーターに迎えた「時の宙づり—生と死のあわいで」がある。
展示されているのは、いわゆる作家の作品ではなく、すべて一般人や写真職人による写真である。
ブローチに収められた家族の写真、象嵌や銀細工を施した什器に収められた先祖の写真、骨壷に印刷された故人の肖像もある。
別室には展示室の壁一面に貼り付けられたスナップ写真群が。それはおそらく写真が一般に普及してから今日までに、無名の私たちによって撮り捨てられた膨大なそれらのごく一部なのだろう。
これらのスナップが面白いのは、いずれの写真も撮影している者の影が写りこんでいること。
なので、そこには「しまった」という気分と、「あなたが撮ったんだからしかたないね」という気分が漂っている。
スナップが撮影する者と撮影された対象との距離・関係を読み取るものであるならば、その数百枚のL版の紙片それぞれにその関係が写し込まれているわけである。
これまでの写真の歴史の中で、世界中でどれだけ膨大な「関係」が焼き付けられ、現在でも生産されているのだろうかと考えるとめまいがしそうだった。
写真というものの意味を見事に具現化した展示会だった。
良いキュレーターがいれば有名作家も有名作品も必要ないという実例である。どうしても、もう一度見たい写真展だ。