「キュレーションの時代―『つながり』の情報革命が始まる」佐々木俊尚(ちくま新書)
佐々木はネットメディアを主なテーマとして活動する評論家/ジャーナリスト。今回の著作は現代のネット社会の状況を、エンゲージメントとキュレーションというキーワードを用いて概観した好著である。
これまでは他人よりちょっといいモノを持つという上昇志向や、同じものを買っておけば安心といった帰属志向が消費のモチベーションだった。そして、マスコミはこうした意識を刺激する広告を限られた情報チャネルを通じて大量に流していればよかった。
しかし、今日の成熟したネット社会ではそうした手法は崩壊している。今日成功しているのは情報ビオトープという概念を理解し、野性的な嗅覚で情報制御を行っている者だとしている。
そして、佐々木はブラジルのミュージシャン、ジスモンチの来日公演を成功させたプロモーターの例や、映画バブル、音楽業界バブルの崩壊した顛末を述べる。
彼のネット社会の現状についての解釈については同意する。しかし、私には失われた業界規模と成功規模の落差があまりにも大きすぎて、それが希望の持てる成功例とは受け取れない。また、彼の筆致に悲観的な色彩が全くないので、素直に彼の考え方に共感することができない。
数年前の梅田望夫のベストセラーを読んだ時もそうだったが、この種のネット文化人からの社会論には根拠のない楽観論が充溢していて、付き合えない感じがつきまとう。
さらに佐々木は、現代のネット社会の行動原理を「共感」と「承認」であるとする。消費は単なる購入と使用ではなく「エンゲージメント」の一環になっていると。
これについて彼は福井県のメガネ屋さんや千利休を題材に取り上げるが、私にはむしろ後半で取り上げる現代アートのマーケットのあり方が適切ではないかと感じた。
特に日本において顕著な現象だと思うが、私が関わりのある若いギャラリストや若いコレクターは、作品を投資的価値としてよりも作家への共感から購入することが多い。そうしてコレクションするという行為にあるのは、非作家による作家への共感と承認である。そして、非作家はコレクターになることによってアートマーケットにエンゲージしている。
このことは富裕層が投資ポートフォリオの対象として作品をコレクションする欧米とは大きく様相が違うのだろう。
そして、それは文化的素養のある分厚い中間層を有する日本に特有の現象だと思う。飛躍して解釈すれば、日本のネット社会が世界に類を見ない成熟度を持っているのは、こうした社会環境あってのことではないだろうか。
ところで、本書によると、今日のネット社会における成功者は「情報をキュレーションする者」=「視座を提供する者」としている。
私が本書を読んで私が最も気になったのがキュレーター=成功者という図式だ。
ネット社会ではこれまでにない価値観が次々と生まれている。佐々木が述べるように個人というリアルムのゆらぎが尊重され、グローバリズムを超えた文化を生み出すプラットフォームが形成されようとしている。
そうした時代には成功者と失敗者という図式を超えた価値観が問い直されているのではないだろうか。
本書のようなネット社会をテーマにした評論であれば、現代という時空間においてあるべき人生観について聞きたいと思う。
「情報の海にクサビをさしてよどみを作り、必要な情報をフィルタリングする」
佐々木が述べる情報キュレーター像である。私にはそれは情報の奔流にかろうじて竿をさして流されまいとしている、といったいかにも弱々しい映像が浮かぶ。
また、「視座を提供する者」も、暗闇に覆われた巨大な洞窟にスポットライトを投射し、その壁画の一部を読み取ろうとする者、というイメージしか浮かばない。
私は今日のネット社会は、旧来の社会の解体を進めているように思う。その点では著者に同意するが、ネットは決して新たな秩序の構築を始めているようにも思えない。
そして、ネット社会から一般の社会へ視点を移動させれば、そこには多くの課題が横たわっている。
政治の混迷、無縁社会、世代間格差。本書の印刷がすすめられているのと並行して発生しているイスラム民主革命に、ネット社会はどのような貢献をしたのだろうか。
本書で取り上げるライフログ、暗黙ウェブから明示的ウェブなど今後の展開が期待されるテーマは数多く、これは現代のネット社会という限定された世界を概観する優れた著作である。
しかし、ネット社会という本書が対象とするテーマ自体に、もはやそれだけを語っている訳にはいかないものがあるのだと思う。ネットを語る言説には社会や文明への視点がもはや必須なのだ。
それにしても佐々木の例証は冗長だ。ブラジル音楽、アウトサイダーアート、ATG映画についての記述が、遊び心があるとか名人芸と言われる域に達するまでには、まだ時間がかかりそうではある。しかし、同世代のいち読者として文体の成熟にも期待している。