ダムタイプ・ヴィデオ上映@NTT ICC
テクノロジーを駆使して緻密で衝撃的なパフォーマンスを繰り広げているアーティストユニット、ダムタイプ(dumb type)のビデオ上映会。メディアアートなんてどうせ音と光でびっくりさせるだけのものでしょ、と思っていたら意外と骨太で体を張っている。もっと早く出会いたかった。
1992年から2004年までの彼らのステージのビデオ5本を上映してるんだけど、私はそのうちの「pH(1992 年)」と「S/N(1994年)」を見た。
「pH」はバスケットボールコート大のステージで、低いところと高いところに可動ブリッジが設置してある。そのブリッジが常時行ったり来たりしており、女性ダンサー3人と黒人の男性ダンサー1人がそれをくぐったり飛び越えたり。
折りたたみ椅子がゲートによって倒されたり、それをダンサーがタイミングよく起こしたり。ブリッジにはプロジェクターが仕込んであって、意味ありげなメッセージや映像をフロアーやダンサーに映しだす。音楽や効果音も決まっていて、見てて飽きさせない。
そんな「楽しめる」パフォーマンスなのに強烈なアートの匂いがただようのは、そのメッセージ性の高さ。消費社会、コミュニケーションの不在、人間の孤立など極めて今日的な社会的問題がポップな映像と音楽に乗せて生身の人間の動きによって表現されている。
そんなメッセージ性をより深めたのが「S/N」。
ダムタイプの中心的メンバーであった古橋悌二がHIV保持者となったことをきっかけに、ジェンダー、国籍、障害などより深い人間の本質に関わる作品となったらしい。<
ステージの始まりは聴覚障害の男性がひとりでタンゴを踊ることから。いつしかトークが始まり、ゲイであること、HIV保持者であること、セーフセックスとは、セックスワーカーとは、夫婦間のレイプとはなど、ともすればタブーとされかねない問題について赤裸々に語りあい、観客に語りかけるようになる。
「pH」のように派手なテクノロジー満載のパフォーマンスシーンもあるのだけど、本当に印象深いのはそんなトークのシークエンス。
トークでは多分本物のセックスワーカーである女性と黒人のゲイ、そして古橋本人が地明かりの下で延々と語り続ける。また、多分本物の聴覚障害の男性が延々と聞き取りにくいモノローグを繰り返している最中に前記のセックスワーカーの女性が体当たりを敢行する。それが延々と続く。
「私は望む、私の血が消滅することを」「私は望む、私の性別が消滅することを」。どちらも工夫がなく冗長とも感じられるシークエンスであるが、やがてその繰り返される無為の行為が絶望と希望の両方を確かに浮かび上がらせるのです。
私はダムタイプのステージに、派手なパフォーマンスよりもアーティストの魂が社会問題と関わると決意したときにその表現が行き着く根源的なものを見ました。古橋さんは「S/N」の2年後に免疫不全で亡くなったそうです。
ダムタイプの他の作品もがぜん見たくなりました。