東京アートミーティング トランスフォーメーション@東京都現代美術館
今日の旬な作家を世界中から取り揃えて豪華な展示会にしなくてはならないと思っているところがかえって痛々しい。
さらに美術館の企画展らしく「トランスフォーメーション」とテーマを掲げたことが、作家の元気の良さを狭い領域に押し込めることになったような気がする。
最初のビデオ作品、パトリシア・ビッチニーニ の水棲人間への変容からして凡庸。同様のモチーフなら沖縄の海に浮いたり沈んだりしながら始原と現在をさまよう山城千佳子の「アーサー女」の方がよかった。
次の部屋の及川潤耶は優れたサウンドインスタレーションでじゅうぶん楽しめたが、これがどうしてトランスフォーメーション?と疑問が湧く。
そもそもトランスフォーメーションという言葉自体に、それがあるべき形態から別の形態に変化する曖昧な中間段階に過ぎない、という意味があるように思う。
今回の作品にはいずれも「諸行無常」とか「流れる河のごとく」といった変化し続けることを肯定するものがなかったように思う。
バールティ・ケールやジャジア・シカンダーら今日のアジアの作家たちにさえ、そうした意識が薄かったような。
さて、フロアを下がって映像作品をみて回ると、もはやテーマから乖離しており、個々の作品として鑑賞すべきなのかと思った。
その中でもマーカス・コーツのビデオは興味深かった。
ウサギを頭に乗せてワンピースで女装し、越後妻有の新嘗祭に乱入してシャーマンじみた動きをしてみせる。そうした(たぶん)ケルトの習俗が新潟の人々に受け入れられている様子は、土着の信仰がグローバルな共通性を持っていることを予感させてくれた。
そうしてとても興味深くこのビデオを見たのだが、いかんせん隣の映像展示の音が薄い壁を隔てて伝わって来てこちらの音がかき消されてしまっている。
しかも、入り口正面のビデオ作品の光がまっすぐに入って来て、プロジェクタの映像が明るくなったり暗くなったりと落ち着かないことおびただしい。
素晴らしい作品が、まったく配慮の欠ける惨たらしい展示になってしまったことにちょっと怒り、会場の方に、作家はこうした状況を知っているんですか?と聞いたところ、もちろんですとのこと。
おそらく作家はオープン前の状態は見ていただろうが、来場者が入ってからのことはわからないだろう。
こうしたことはキュレーターが会場をまわって気づかなければならないこと。あるいは運営担当が看視からレポートやクレームを吸い上げて、展示責任者に報告しなければならない。
オープンから1ヶ月半も経っているのに、こうした状態が放置されていることは、展示会の運営としては不手際と言うべきだろう。
ところで、ロシアのグループ「AES+F」がいたのには驚いた。
彼らの作品は2008年の101 Tokyoで一度見ており妙に印象に残っていた。その作品も少年少女が芝居がかった剣劇シーンを演じている写真で、あきらかにアニメの影響を受けたもの。
今回のビデオ作品でもその世界が継承されており、薄っぺらなCGアニメーションを背景に少年少女が絶望的な闘争をするといったイメージ映像である。
奥行きのない背景に、演技力のないモデルらしき少年や少女がポーズをつけている様子は、今日の人々が共有している浮薄な世界観を図らずも映しているようだった。しかし、その寒々とした映像とはうらはらに、なぜか幸福感が充溢しているようでもある。
サラ・ジーはさりげなくも綿密で、ありがちなカワイイ小物系作家としては模倣しきれない高みにいる。これに狂気の味付けがあるともっと好みなのだが。
アトリウムの立体作品にはそれほど惹かれなかったが、隣接するラウンジの絨毯にぺったりと座って、薄膜を隔てて見る景色がすばらしかった。図録など見ながらしばしリラックス。
ところで、この企画展は中沢新一が共同企画らしいが、どのような部分で参画したのだろうか。
アーカイブルームの生命相ラウンドテーブルだけだとしたらかなり限定的な参画である。もっと文化人類学らしい展示物を持ち込んで学際的にしてもよかったのに。
大阪万博記念公園の民博と共同企画をしたらどうなったかだろうか、などとレストランCàfê Haiでランチを食べながら空想した。