マーク・ロスコ 瞑想する絵画@川村美術館
(本レポートはアーティストユニットおよび美術教育プログラム活動団体「Play Art Laboratory 」の鑑賞会の報告として書いたものを一部書き直して投稿しました)
1.川村美術館について
普段ハコモノの経営や運営を目の当たりにしているもので、都心から2時間の山中にある美術館とはいかなるものか、という興味もあったのですが、期待というか想像を裏切るすばらしいロケーションと施設に感心しました。職員はホスピタリティ精神がよく、専門知識もあり、大型連休直後の週末であってもそれなりに来場がある理由も納得がいくものです。美術館に行くと、看視員にちょっと話しかけることにしているのですが、きちんと勉強しており、かつ分からないことははっきりとそう伝えるところが、組織的にしっかりしていることをうかがわせます。地方の企業スポンサード美術館の好例を見たようでうれしくなりました。
2.収蔵品について
さて作品ですが、収蔵品は印象派からシュール・ダダイズムなどハコモノとしての話題が期待できる「押さえ」的なものと、ステラの大型インスタレーションなどオーナーの嗜好が入り混じっているような印象を受けました。
ルノアール、モネなどは、都心で展示したら前の人の頭しか見えないような状況で立ち止まることさえできないような作品なのでしょう。それらを間近でじっくり鑑賞して感じたのは、印象派ってけっこうディテールがゆるいのだなあということです。ルノアールの「水浴する女」の左手なんか「この人、この部分で熱意を失ったのでは」と思うくらいいい加減な感じがしました(素人の感想ですからごめんなさい)。
2階に上がるといよいよ抽象画のゾーンです。暗い階段室からほの明るい2階を見上げるとバーネット・ニューマンの巨大な赤が見えてきます。ある同行者がコルビジェが階段ではなくスロープを好んだ理由などについて話してくれましたが、作家というものが作品そのものだけでなく、それが配置される空間にも感性を働かせ完成度を求めるものであることが実感できるひとときです。
3.水平に描くこと、垂直に描くこと
私が以前から持っていた抽象画のイメージは「でかい」ということですが、いずれも期待にたがわぬ大きさでした。そしてポロックなどの作品を見て私は1階の日本画ゾーンにあった屏風を思い出しました。屏風は確か部屋に紙を広げて描いたものを後で装丁するのではなかったでしょうか。つまり水平状態で描いたもの。これに対してキャンバスに描かれた抽象画は壁に立てかけられた状態で描かれたもの。つまり垂直状態で描かれたものではないか。そういえば心なしか絵の具がタラーっと垂れているような作品もありました。
私は作品を見ながらいつも、作家が作業をしている姿を思い浮かべるのが好きなのです。なので、ある方が、「いや、水平にして台に乗って上から描く人もたくさんいますよ」と教えてくれたとき、その姿も面白いな、と思いました。アトリエいっぱいに置かれた巨大キャンバスをまたぐように脚立で仮設置されたキャットウォークに腹ばいになって、ときどき汗がしたたってしまうのをタオルでおさえつつ絵筆を振るう作家の姿。制作している姿が絵になる作家っていいですよね。
それはそれとして、作家が作品を垂直に描く場合と水平に描く場合、どのような違いがあるのか、というのも興味深い問題に思えます。垂直の場合、数歩あとずさりしては全体の構成を確認し、近づいては絵筆を振るう。しかい、水平の場合、全体を見通すためにはどのような位置に移動するのだろうか。しかし、平面の上に立って360度見回すほうが作品に対する没入感は高いのではないでしょうか。ロスコーの鑑賞者も作品を床に置いて、上から立って見渡す経験をしてみたくなりませんか。
4.写真の時代とアーティスト
絵画が抽象へ移行した時代は「写真の時代でもあった」とある方が話してくれました。中世では現実を忠実に写し取るテクニックが画家に求められていたことであったのに対し、近代になって写真機が登場したことにより「このままでは画家は機械と同じになってしまう。自分たち芸術家として、するべきことは何だろう」との問い直しがあった。そのひとつの答えが抽象画だったのだ。ある同行者の話を私はこのように理解しました。
では、これらミニマルな形象が少ない色数で描かれている巨大なキャンバスによって、近代の作家はどのような答えを提示しようとしたのでしょう。それは今回の鑑賞では私にはわかりませんでした。感じるところはあっても、それを言葉にすることができません。ただ、ひとつ感じたのはいずれの作品からも緻密な構造が感じられたということです。単純に描いているようであっても、あのサイズにフラットに絵の具を配置するには精妙な計算とそれを実現する技術が必要だろうと思います。また、下地の色と塗り残された部分の空間比率は感性ではなく計算に基づいて決定されているように思えます。
5.マーク・ロスコとフォー・シーズンズレストラン
最後の部屋、「マーク・ロスコ 瞑想する絵画」展でいよいよマーク・ロスコと対面することができました。シーグラムビルのフォー・シーズンズレストランを模した部屋の4面の壁に配置された作品はいずれも巨大でした。巨大な正方形のキャンバスに深い赤で地塗りをし、その上にもう少し明るい、しかしやっぱり深い赤で各種の方形が描かれています。
その部屋に入って先ず感じたことは、作品の配置が奇妙だということでした。本来それらの作品が設置されるはずだった位置に忠実に配置された作品群はとても高い。立っていてもほぼ見上げるようでした。座って食事をしている場合であれば首が痛くなるようです。しかも作品と作品の隙間がほとんどない。
そこはレストランですから客は食事や会話を楽しみに来たのでしょうが、ロスコーの一群の作品に見下ろされてする食事や会話はどんな雰囲気になるはずだったのでしょう。むしろロスコーはこのレストランでどんな会話をしてほしかったのだろうか。
私はこれらの作品の深い赤と明るい赤によって描かれた方形に、「入り口」と「出口」を見ました。そこに入っていけるような、あるいは何かが出てきそうな。どこか別の場所へ続いていそうなぽっかり空いた空間。30個ものそんな「入り口」と「出口」に4面を囲まれた場所といえば何でしょう。人がやって来てはどこか別の場所へと去るところ。巨大ビルのエレベーターホール? 巨大ステーションのターミナル? やってくるのはあるいは人間ではないのかも? いずれにしても落ち着いて食事をするような場所ではないように思えます。
ロスコー本人がどう考えていたかは知りませんが、もしセレブが集う高級レストランを人々があわただしく行きかうターミナルにしようとしていたのだったとしたら、妙なユーモアがありますよね。私はそんな空想を楽しむことできました。