ヨコハマ国際映像祭2009 CREAM – Creativity for Arts and Media –
ヨコハマ国際映像祭2009@BankART StudioNYK & 新港ピア
初日のBankART StudioNYK会場で看視ボランティア。前日のオープニングレセプションでいろいろあったらしいが、それはまた別のところで。
映像というとアートだけではなくて、ジャーナリズム、メディア、テクノロジーなど広い範囲が含まれる。この会場はその全体像を概観できるようにしたためか、ややとりとめのない印象。新港ピア会場は行ってないのでまだ分からないが、もしかするとこの国際展全体がそうなのかも。
NYK会場で特に気に入ったのが志賀理江子「“カナリア”スライドショー」。日常的でありながらちょっとげっ、となる写真を微妙なタイミングで編集したスライドショー。個々の映像が超断片的なのでさっき見たあの映像のことが気になってしかたなくなる。しかも新しい映像が次々にやって来るのでもっとモヤモヤする。それがエンドレス。後引く作品だった。
あと、オランダの作家アーナウト・ミックの「スクールヤード」。とある学校の広場に集う100人くらいの老若男女が繰り広げる意味がありそうでないような群像劇。気を失った人をみんなで運んだり、自動車を破壊したり、でも警備員と学生は親しげだし。不穏なようで馴れ合っている。これもループで上映されるので始まりがどこで、どこに向かっているのかも分からない。不思議な気分にさせるが決して飽きさせない。
作品の撤去を表明した藤幡正樹の作品も見たが、確かに音声に対する配慮が足りなかったように思う。映像祭というからには音の問題は付き物だろうに、と思った。
(続き)
翌週末、今度は新港ピア会場と芸大馬車道校舎へ行ってみた。今度はチケット買って。
新港ピア周辺は本当に何かイベントやっているの?というくらい人気(ひとけ)がない。
最初の部屋「ホワイエ」は巨大なホワイトキューブでがらんとしている。NYKが結構詰め込みぎみなのに何故?とさっそく疑問がわいてくる。
次の間「展示スペース」も作品らしきものは若干で、「映像が生まれるところ」コーナーばかりが大きなスペースをとっていた。これは台の上にモニタとヘッドフォンが置いてあるだけの「勝手に見てね」という映像展示。
「シアタースペース」はY150のシアターがそのままあって、各種の大型映像が上映されていた。お客さんが少ないのでゆっくり鑑賞できる。しかし、日曜日の午後にこれでいいのか?
最後の「ラボスペース」が唯一の楽しそうな空間で、アートプロジェクト団体やそのワークショップ、市民放送局ブースが軒を連ねていた。しかし、いずれの部屋も来場者が極めて少ないのでフェスティバルならではの祝祭感がない。言ってみれば出展者ないしは主催者の空騒ぎのように感じられる空間。
ラボスペースの作品では「都市のミーム」プロジェクトが興味深かった。
日常の空間にちょっと違ったものを配置した「プリコラージュ」映像。街の人間のほんの少しだけはずれた行動をビデオで記録する「フラヌール」。これらを多数の市民の協力を得て収集、記録している。
主催者は文化人類学の研究者で、ここから現代の諸相を浮かび上がらせようという趣向。映像も興味深いがその研究成果も楽しみです。会場ではこのプロジェクトに関わったというアニメ作家の方に自作のアニメーションDVDをいただいてしまった。
お客さんが来ない、という致命的な問題は総合ディレクターらで総括して反省すべきだと思う。しかし、それ以外にも、映像作品というものは「ひとつの作品を見終わるのに時間がかかる」「それぞれの作品は音が出る」など作品特有の課題がある。私にはこれらを何らかの方法で解決をしよう、という態度が展示空間にまったく見られなかったことがもっと残念。
映像祭にはコンペティション、作品上映、シンポジウム、ワークショップなど、展示以外にも多くの要素があり、それらをより重視したいのは理解できます。であればパスポートをもっと安価にするなど、コアな映像ファンが繰り返し来場できるような仕組みをもっと考えるべきだったのでは?
展示空間や運営のディテールに工夫が感じられず、全体的になげやりな印象を持ったフェスティバル。2億円の予算をかけてこのスカスカの閑散とした空間と時間を作ったのか、とまた行政主導イベントの失敗例を目の当たりにしてしまったようでした。