小谷元彦展「幽体の知覚」@森美術館
横浜で高嶺格にあたって、この際残りのカラスも見てやれと思い、勢いで六本木まで行ってきた。
小谷の作品はメゾンエルメスの小規模個展や現美の企画展などあちこちで見ている。それが一同に会するこの展示会は予想通り満足度が高い。
手のひら血まみれ少女や矯正具付きの小鹿など、記憶にある作品で懐かしさを覚えてから、「ダイイング・スレイブ」の巨大しゃれこうべで度肝を抜かれ、「インフェルノ」で驚愕の空間を体験した。
「ラッフル」や「ニューボーン」、「ホロウ」の造形の見事さにも感嘆するが、特にシャドウズの小、中、大の彫刻群、「心臓を持つ唐草女」、「アイ・シー・オール」には格調が漂う。
造形の鑑賞における多様な歓びを味わわせてくれる、めくるめくような展示空間だった。
先日の横浜でのシンポジウムで、小谷が今回の展示について、「音と色に注意を払って構成した」と語っていたのを思い出した。
「ファントム・リム」の血液からスタートし、白と黒の繰り返しで進行し、最後の作品が血液シャボン玉であること。また、展示の中心に据えたのがインフェルノの轟音で、これに導かれて会場を進み、この音から遠ざかるという構成にしたとのこと。
小谷は、巨大な展示空間で、たくさんのスタッフと大きな予算を見事に使い、いい仕事をしたと思う。
ということで、展示会としては満足度の高いものだったが、小谷は例の次世代を担う三羽烏としてはどうだろうか。
彼は多くの予算と職人の技と高価な素材を使い、死と退廃の匂いが漂う美しくもビザールな作品を制作している。しかし、その作品構築がどんな欲求に基づいているのか、私にはまったく見えない。
異形の造形が前衛の作家たちから構築されるとき、それには時代や個人的経験が透けて見える。例えば岡本太郎、池田龍雄、中村宏、山下菊二。造形でなくてもいい、篠原有司男、糸井貫二、松澤宥。
彼らの作品には作家の人生と心的な日常がにじみ出ている。それが鑑賞者の内部に呼応し、感傷が呼び覚まされる。アートの鑑賞とはそうして自己の内部に作品に呼応するものがなければならないのだと思う。
今日の若い無名の作家の作品からもそうした精神の毒がにじみ出していて、それに自分の心が呼応するのを感じて無性に感動するときもある。この文脈で取り上げて申し訳ないと思うが、これとか。
一方、私には小谷のビザールな造形は彼の内部から湿潤したものとは思えず、それに呼応する何ものをも自分の内部に持っていないことを確認するのみだった。
皮相な作風と言えばそれが現代的と返す言葉があるだろう。しかし、文化における皮相も軽薄も現代特有のものではない。上記の前衛作家たちもそう呼ばれていた時期があった。腹を据えて軽薄を為すということもある。
小谷が日本の次世代を担う作家であるならば制作への衝動がもっと見えないとものたりない。
あと、毎日新聞言うところの次世代三羽烏については美術館公認らしい。ハマ美、メトロポリタン、森美の三館相互割引制度があった。知っていたら利用したのに残念。同時期に名和晃平もやっていたら四羽烏になったのかな。