映画「ソーシャル・ネットワーク」
ユーザー数5億人と世界最大のSNSと言われるFacebook。その創業者、マーク・ザッカーバーグを中心としたビジネス創業とお定まりの内紛、そして訴訟合戦を描いた映画。
室内で議論しているかキーボード叩いているシーンばかりで、映画としては退屈だと思う。ソーシャルネットワークに興味のある人か、ギークなハッカーに親近感を抱く人であれば楽しめるかもしれないが。
デヴィッド・フィンチャー監督だからファイトクラブやセブンみたいに、あれよあれよと言う間にとんでもない世界に連れて行ってくれるのかと思っていたのに、哀しいくらいオーソドックスな話。
フィンチャー監督がギークの価値観をどんな手法で掘り下げ、どんな映像で表現してくれるのかと期待していたが、がっかりな結果だった。
この映画がつまらないのは、ザッカーバーグが昔ながらのネットギークとしてしか描かれてないからだ。
そして、彼が情熱を傾けてこのビジネスにかけた動機は、好きだった女の子に振り向いてほしかったか、あるいはひたすら成功者になりたかったのだと言いたいらしい。つまり、アメリカ人一般にとって分かりやすい創業者と成功者として描きたいらしい。
しかし、そもそも本物のネットギークやハッカーはそんなものに興味があるのか?
映画の中でザッカーバーグが何日もかけてひたすらコーディングしている姿とか、握手もしないでキーボード叩いている奴がいたが、あの方が私のイメージする「なぜか成功しちゃった」ネットビジネスの創業者だ。
コーラのペットボトルとポテトチップスを何箱も与えておけば「面白そうだったから」やってしまうのがあの連中だと思う。そして、満足行けばポンっとなげだしてしまうもの。
その価値観は一般人の想像力はるかに超えていると思う。そして彼らは私のヒーローでもあったりする。
まあ、映画だからの本当の彼を描いているとも描かなければならないとも思わない。
ただ、とてつもない成功をしたネットギークという素材を使って、現代人の意識の深みを描くというの未曾有の機会であったとは思うが。
ただ、今回も音楽はよさそうだった。ダストブラザーズのやったファイトクラブのサントラもよかったが。
映画はともあれ、Facebookについては勉強になった。
Facebookがハーバード大学の社交クラブをきっかけに爆発的に広がっていったということは、つまりあれの人気は米国の階級社会意識を背景にしているということか。
Facebookのあの詳細きわまりないプロフィール欄を記入するとき、日本人なら「なんでこんなに面倒臭いことを」と思うのに、欧米人は自分の社会的ステータスを確認しながら「ムフフ」といい気分になりながらするわけだ。
Facebookで自分の社会的ステータスを披露したがるのが欧米のネット社会。フラットな立場で丁々発止をする楽しさに目覚めてしまったのが2chやMixi、Twitterを代表とする日本のネット社会。
だとすると、実名文化の名のもとにリアルを無遠慮にネットに持ち込んで同じことをしているあちらに比べて、私は明らかに日本のネット社会の方が洗練されていると思う。
だから、Facebookが日本で成功しない理由は、単に「退屈なネットコミュニケーションだから」に過ぎないと思う。それがこの映画で知れ渡ってしまうのではないだろうか。
ネットの実名コミュニティという国内にFacebookと同等のサービスが存在しない以上、ある程度は日本でも受け入れられるかもしれない。でも、それはニーズを満たすという程度であって、米欧のように熱狂的にではないだろう。