鈴木一巧 一人語り「友情」ある半チョッパリとの四十五年間@横浜カナリアン
鈴木一巧 一人語り「友情」ある半チョッパリとの四十五年間@横浜カナリアン
師走の喧騒でごったがえす横浜駅の地下街を通り抜けて、閑静な住宅地のこれまた奥まった路地にあるゲストハウス・カナリアンにたどり着いた。
ここはオーナーが自ら手がけたウッディな造りで、奥さまの世話がいいのかいつでも清潔。もっと利用者が増えても良さそうなのに、何故かいつも空いている。
それでも時々素敵なお芝居やアートの展示会をやって楽しそうにしているオーナーの姿を見ると、それでもいいか、と思ってしまう。
今回のお芝居はそのカナリアンのこじんまりとしたロビーに、20人ほどのお客さんが来ていました。
西部満は政治評論家で保守派の論客である。中学校時代を札幌で過ごし、そこで海野という友人に出会った。この一人芝居は西部による彼らの交流についてのエッセイをベースに、海野という男の破滅的な人生をえがいたものである。
海野は朝鮮人の父と日本人の母をもつ「半チョッパリ」である。彼らは教室で机をならべ、共に学生時代を過ごすが、それもつかの間、海野はやがてヤクザの道にはまり、覚せい剤に心も体も蝕まれていく。それでも学生時代の友情を忘れない西部は折に触れて彼と関わり、陰に陽に励まし続ける。
海野の人生はあまりにも破天荒で破滅的であり、今日の人々からは到底共感が得られそうもない。自業自得だと切り捨てられても仕方ないようではある。
しかし、そうした海野の人柄に不思議な明るさや義理に厚いところがあることを納得させるのは、鈴木が挿入した本人による自分語りのシーンのためだろう。
彼自らが語る終戦直後の苛酷な時代に、母と幼い子供がさまよった北海道南部の凍てついた景色。母をなくし、兄弟からはぐれてひとり眠る札幌駅の構内。ようやく兄と暮らせることになった喜びに浮かれる自分。
そうした経験がこの破滅的な男を人懐こい、いざとなったら罪をかぶっても世話になった人を守る任侠という意味での誠実さのある人柄であることを納得させる。だからこそ西部が彼との友情を四十五年間も守り続けたのだろうと納得させる。
このように、ひとりの人間の人生を、ふたりの視点から、ひとりで語り切るという力技を鈴木はやり切った。それは、演じられる人生を観客がともに生きるという、芝居を見ることの醍醐味だった。
芝居が終わってからのカレーライスのふるまいもよかった。鈴木氏を囲んでビールを飲みながらのトークも。また、その後の屋台のおでん屋も。たっぷりと楽しんだ師走の横浜の夜だった。