高嶺格「とおくてよくみえない」@横浜美術館
曽根裕を見に行ってから毎日新聞が言うところの次世代三羽烏が気になって、横浜美術館まで行ってきた。
この展示会に関しては横トリサポーター事務局が制作協力を呼びかけていたのを知っていた。使い古しの毛布の募集もあった。
最初の部屋で早速その毛布による作品。柄のある毛布をうやうやしく額に入れて、それらしいキャプションを付けて展示している。
あまりにも皮相じゃないか。現代アートとして好意的に解釈してあげる気にもならない。
ということでスタートが良くなくて、次の物々交換ビデオも感心できなかった。
その次の暗室は「鹿児島エスペラント」風の、暗い部屋でコンピュータ制御のスポットライトを使ったインスタレーション「A Big Blow-job」。
これも横トリサポーターに協力依頼があった作品らしい。しかし、先程の毛布作品もそうだが、これをもってアートプロジェクトと言うのだろうか。
市民が作品に参加したという痕跡がない(というか暗くて見えない)し、この作品に市民が参加しなければならない理由がわからない。私が知っているアートプロジェクトでは作家と非作家が共に創り上げていく工程に必然性があり、それが展示された作品に具体的に刻まれているものなのだが。
その後のビデオ作品「Do what you want if you want as you want」と「God Bless America」については曽根裕のビデオ作品についてと全く同じ印象を受けた。つまり、あまりにパーソナルである。
映像であれ平面作品であれ、近代以降アートは自ら文脈の構築をしなくてはならなくなったのだと思う。鑑賞者はその提示される、ないしは暗示される文脈を読み取ったのち、そのスケールの目盛りの上で良いとか悪いとかの判断をするものだろう。コンセプトアートの作家はその文脈の重要度が特に大きいはず。
その点で、曽根も高嶺も文脈のスケールが微小なのだと思う。あまりに微小すぎて観客には計測できないのではないか。
「ベイビー・イサンドン」が構築としてはシンプルながら観るに価する感じを与えるのは、民族や歴史という社会論の文脈にスケールを委ねているので、計測が可能なように見えるからかもしれない。
であればその民族や歴史スケールの他の作家たち、例えば沖縄の新しい作家たちやアジアの作家たち、もちろん在日朝鮮人の作家たちと比較することができる。高嶺がそのスケール上のどの位置にいるのかは別の問題だが。
最後の新作「とおくてよくみえない」はやはり映像作品。壁面を跳ね回るテキストは、かかっているであろう技術料とテクノロジーの割には意味がない。映像そのものはそれなりに見ごたえがあったが、上記と同じ理由により評価に値しない。
現代アートの次世代三羽烏のうち二羽は、先ずは文脈の構築に取り組まなければならないのではないか。
こうした展示会を見て思うのは、作家、評論家、学芸員らアート業界人もアートファンも、「現代アートは難解」という言葉を発して安堵感を共有してる場合ではないということだ。
特にアートファンは招待券で展示会に来ているわけでもないし、作家に個人的に近しいわけでもない。だから、感じたことをそのまま口にするハードルは業界人より低いはずである。
よく分からないものに触れたら、自分を納得させて何となく知的な気分になるより、分からないと発言する方が建設的だ。
また、アートファンにはインサイダーになりたがる人(アートボランティアも含め)が多いと思うが、そうしてインサイドに接近することで純粋な鑑賞者であることを引き換えにしている危うさについても意識的にならなくてはと思う。