ギリヤーク尼ヶ崎 青空舞踊 新宿公演@西新宿 三井ビル55広場
ギリヤーク尼ヶ崎 青空舞踊 新宿公演@西新宿 三井ビル55広場
お天気のいい体育の日だから新宿区内ではどこもイベントが盛況。知人の連絡で以前から名前だけは知っていたギリヤーク尼ヶ崎の公演に行ってみた。
いつもはおしゃれな三井ビルの広場は、ひとりの80歳になる大道芸人を待つ人々でそれなりに盛り上がっていた。
演ずる広場を一段上がったところがカフェのオープンテラスになってるのだが、ここにもお客が数人。踊り始めたらこの人達びっくりするのではなかろうかと心配していたが、どうやら仕込みのようだった。若いサポートスタッフがたくさんいたので驚いた。
ギリヤーク尼ヶ崎は自らを大道芸人と称している。ドーランで白塗りだし、ときどきケツ出ししたりして、田舎のお祭りなどでやったらどっとウケるような要素がある。それを新宿西口でやっても大ウケだったし、ニューヨークでもやったらしい。今日もポンポンと景気よく投げ銭が放り込まれていた。
彼のパフォーマンスを見て、アート・パフォーマンスについて考えた。
「肉体のアナーキズム」でアート・パフォーマンスは芸術表現者による肉体による表現であるとの言葉があった。パフォーミング・アートが本来、身体による表現を専門としている声楽者、楽器演奏者、ダンサーによる表現であるのに対して、アート・パフォーマンスはその非専門家による肉体表現である。
なぜ、非専門家がそれをするのかについては、自分の手がけている表現にそれが必要ということなのだろう。ハイレッド・センターや観光芸術研究所の方々がするその行為が、今日では成果物である作品に固く結びついていることは明らかだ。
であれば、作品を伴わないアート・パフォーマンスが成立するのだろうか。
今日ではそうした、平面や立体作品を作らない人々であり、かつダンサーでも楽器演奏家でもない人々がアート・パフォーマンスをする場合がある。これをどう理解すればいいのかとの疑問は募るばかりだった。
アートは何でもあり。やっている本人がアートだと考えれば何でもアートになるとの発想を受け入れる気は、私はまったくない。
自分の作品を美術史の文脈に位置づけることができるか、そうでなければ言語と理論によって人を納得させられるか、あるいは表現の成果によって人を感動させることができなければアートではない。
その意味で、私はこれまでアートと認められるアート・パフォーマンスにお目にかかったことがなかった。
しかし、ギリヤーク尼ヶ崎の公演をみて思ったことがある。それはパフォーマンスは己をさらすことであり、人生をかけてそれをすることなのだ。
80歳の高齢者が一人ぼっちで、心臓に電池切れ間近のペースメーカーを入れて、痩せた腿や臀部をさらす。正体不明の動作をして憐憫すれすれの情感を誘う。それが大道芸の方法なのだろうが、それは人にちらりと別の世界、別の人生をかいま見させることができる。
彼はずっとこれをしてきたのだ。彼を間近で見ることによってそのことが実感される。それが人を感動させ、熱狂させる。
鍛えあげられたダンサーの動きや形式理解に基づいた日本舞踊の踊り手は、もちろん素晴らしい鑑賞体験を与えてくれる。しかし、その感動はパフォーマーの人生についてのものではない。おそらく長時間の練習や鍛錬は、その人生体験を覆い隠す鎧になってしまうのではないだろうか。
若いアート・パフォーマーがつまらないのは仕方がない。動きや存在からしみだす人生が少ないから。アート・パフォーマンスの修練は人生の探求そのものなのだろう。