サイレント・ナレーター それぞれのものがたり&石田尚志@東京都現代美術館
サイレント・ナレーター それぞれのものがたり&石田尚志@東京都現代美術館
石田尚人の「海原の絵巻」は2010年のアーティストファイル(国立新美)でも見た。肉体感覚を伴う疾走感のあるコマ撮りアニメーションで爽快このうえない。今回はこの作品と同じ2007に制作された「海の壁―生成する庭」もじっくり見られる。
これは空白のキャンバスをかけたホワイトキューブにカメラを据えて、部屋全体をアクション・ペインティング風に塗っていく工程をコマ撮りしたアニメーション。ところどころに沖縄の海の風景を投影している。これもまた画面には現れない肉体の存在感が強烈なビデオ作品だった。
こうした作品をみてつくづく思うのだが、作家個人が膨大な手作業を経てつくるという手法分野は日本人の独壇場ではないだろうか。最近見た中では椛田ちひろの巨大なボールペン画、そのさきがけとしてのエミコ・サワラギ・ギルバートを思い出す。
ところで、初期の作品「部屋/形態」を見ていて思い出したのだが、恵比寿映像祭でこれと同様に陽の差し込むレンガ壁の部屋を描画したコマ撮りアニメーション作品を見たことがある。これは石田の作品だったのだろうか。後で調べてみよう。
また、沖縄の砂浜に水で模様を描く様子のビデオ作品「砂の線」を見て、レイ・ブラッドベリの「穏やかな一日」という短編を思い出した。
この短編に出てくるのはスペインのリゾートで退屈するアメリカ人老夫婦。夫が夕暮れの浜辺に散歩に出たところ棒切れで砂に何かを描いている老人を見つける。「ピカソだ」夫は直ぐに気づくがその砂に描かれた作品には夕暮れの満潮がすでに迫っており…。夕食の席で妻がいつもと様子が違う夫にどうしたの、と尋ねる。夫は答える。「ただ、波の音を聞いているんだ…」
石田の作品もブラッドベリの短編も、描くそばから消えていく作家の徒労にアートの一断面を見せてくれた。高松次郎が多摩川の石にひたすら数字を描きつづけた「石と数字」もそうだったが、コンセプチュアルアートとしての評価は別として、私は実際の行いとしての徒労感が伴う作品に強く惹かれる。
2階は「サイレントナレーター|それぞれものがたり」という企画展。泉太郎のインスタレーション「Butter」が新収蔵されたのでこれのお披露目のようだった。
私は新収蔵作品としては加藤泉と小金沢健人が素晴らしいと思った。
加藤泉はいつもの人物画なのだが、この方の持ち味である深みのある色使いのグラデーションを楽しんだ。小金沢健人はドローイングの連作。ユーモアのあるストーリーを絶妙な空間使いと迷いのない線で楽しませてもらった。
それにしても泉太郎作品の音がうるさい。加藤と小金沢を静かに楽しむことができなかった。どうしてあれを同じ空間に置くことにしたのだろうか。
現代アートが多様な表現を持ち、音の出る作品があることは自明になって久しい。であればそろそろ現代アートの展示空間はこうあるべきという手法の確立が必要ではないだろうか。
どの企画展に行っても音の出る作品同士の干渉や、音の出るものと静かに見たいものの対立が展示空間にある。運営方法、技術、消防法との兼ね合いなどを統合した、決定版的な手法を確立するところがあるとしたら都現美じゃないだろうか。
最後の部屋、メキシコの貧民街の夜景の美しさをモチーフにした荒木珠奈「Caos Poetico(詩的な混沌)」が素晴らしかった。それぞれのランプの色セロファンから漏れる光、個々のランプの内側に貼られた商品パッケージのマンゴ、ドレス、ハチドリ、クジャク。人の営みのかけがえのなさが表現されている。アートファンなら必見だと思う。