ヨコハマトリエンナーレ 2011 “OUR MAGIC HOUR”
ヨコハマトリエンナーレ2011
プレオープンと初日にボランティアやって、それからほぼ毎週のように横浜通い。
何よりも好きなアートイベントなもので、何も考えずにボラ参加していましたが、なんかモヤモヤする。そろそろそのモヤモヤを解いてみよう。
組織委員会の人や総合ディレクターの話を聞くと、とにかく「実施できてよかった」とのこと。
仕分けによる国際交流基金の撤退や震災による資材の高騰などがあり、これほどの逆境の中で実施された横トリは初めてなのではないか。磯崎新がぶん投げた2005より過酷かもしれない。
それは分かるのだけど、サポーターとしてはこの三年に一度のアートのお祭り。可能な限り多くを期待してしまうのは仕方のないこと。なので、いきおい過去の横トリと比較してしまう。
ヨコハマトリエンナーレ2011には海がない
今回の横トリが過去展と違って致命的にがっかりなのは、とても情緒的だが「海がないこと」だ。
横トリにはいつでも海があった。2001ではインターコンチネンタルホテルのバッタが海空を凝視していたし、2005では山下埠頭へのアプローチでダニエル・ビュランの旗がはためいていた。2008では赤レンガ倉庫でも新港ピアでも海風がビュービュー吹いていた。今年は横浜美術館からもBankARTからも海が遠い。
運河沿いのBankARTだけど今年はちらっと見える景色が海を余計に遠く感じさせる。
2008ではここから定期ボートも出ていた。その時の入口は2階で外階段を登って行くと観覧車や赤レンガ倉庫が見えて爽快だった。あと、3階の中西夏之の部屋の小窓から見える景色はちょっとしたプレゼントのようだった。
どうして今年のBankARTはあんなに閉めきってしまったのだろう。
私は横浜市民ではないが、「横浜」で現代アートの国際展をやることに興味を抱き、やがてそれがわが街の誇りのように感じ始めたものだった。それがミナト横浜の現代アート展が普通のアートイベントになってしまったことに私の周囲の横浜市民にもがっかり感が漂っている。
まちなかへの展開はどこへ行ってしまった?
そうした情緒からの視点はさておき、横トリの基本理念から考えるとどうだろうか。
横浜市創造都市事業部(当時)の担当が言うところの横浜トリエンナーレの特徴は、「まちなかへの展開」と「市民協働」である。
もう一つの大きな特色は、まちなかへの展開です。創造都市・横浜は、文化・芸術の力で、歴史的建築物などを活用するまちづくりを進めてきました。トリエンナーレの期間中は、横浜に集まるアーティストの協力を得て、まち中が様々なアートやプログラムで彩られることになります。「横浜トリエンナーレ組織委員会会長 横浜市長 林文子(ヨコハマトリエンナーレ2011 公式ウェブサイトより)」
2001のバッタは言うに及ばず、2005のヴィラ會芳亭、2008の大巻伸嗣や田中泯のような日常空間を異空間に変える作品が今回は見られない。
これはあいちトリエンナーレだが、池田亮司によるspectra [nagoya]はアートファンのみならず、すべて名古屋市民に忘れられない異界の塔を建造した。横トリ2008の大巻伸嗣のシャボン玉は市内各地で通りすがりの一般市民に歓声を上げさせた。
2008で三渓園会場が実現したのは水沢総合ディレクターの強い意向だった。長閑な日本庭園で普通の観光客と現代アートファンが入り交じる様子を見るのは楽しいボランティアだった。
特に中谷芙二子の霧の彫刻は、三渓園に写真を撮りに来た高齢の写真マニアたちを夢中にさせていた。また、古民家の和室で前置きなしに展開されるティノ・セーガルのキスではお客さばきに手を焼いたようだった。
今年の作品ではウーゴ・ロンディノーネの像群は外に向かって開かれてるように感じられるが、美術館の前に設置しても街中への展開にはならない。あれが三渓園にあったらと妄想してみる。
また、もうひとつの特徴である「市民協働」では大幅に後退した。しかし、今日これについて触れるのはやめておく。
パフォーマンスがなくてお祭りらしくない
2008と比べて特に大きく違っているのは、2011の横トリは普通の展覧会になったということだ。
評価は分かれるが横トリ2008では水沢総合ディレクターの下、内外の5人のキュレーター陣が「ゲームの規則」というペーパーをまとめた。その要旨は今日における国際展はオープンした時にはすべては終わっているという認識だ。端的に言うと、だからこそひたすらパフォーマンスをするべき、ということだった。
おかげで横トリ2008では驚異的にパフォーマンスやライブ、シンポジウムが多かった。赤レンガ倉庫の3階シアター、運河パークのリングドーム、三渓園のティノ・セーガル。平日でもほぼ毎日どこかで何かやっていた(田中泯の場踊り、そしてあの痛そうな勅使川原三郎)。そのため組織委員会ではこれらをさばくためにオープン後に何人か採用したと聞いた。
現代アートの展示会というのはこんなにパフォーマンスをやるのかと驚愕したものだった。しかし、それが横浜市全体を巻き込んだ現代アートの祝祭気分を巻き起こしていたことは確かだった。その記憶があるもので今年の横トリは、美術館と関連施設に引きこもった印象がさらに強い。
横浜とハノイのボランティアがそれぞれの街を走り、そのGPSログによってサクラを咲かせたジャン・グエン・ハツシバの作品はアウトプットとしては美しいが、それは既に完了しているイベントの記録だ。
例えば、これが毎週、横浜とハノイで同時に行われ、その結果が刻々とGoogleMapに表示され…、のようだったら現在進行形になったのだが。
ジェイムズ・リー・バイヤーズの作品と連動したパフォーマンスは、土地に祈りと存在を残す意思を思わせて素晴らしい。ミルチャ・カントルの徒労の歩みと連動して鑑賞するとさらに深みを増す。私はこうした作品が美術館に収まってしまうことが残念だと思う。これから数回でもいいから三渓園でやってくれないだろうか。
国内も海外もスタープレーヤーが少ない
さて、トリエンナーレ、ビエンナーレというのは、そもそも世界の現代アートの状況を概観するためものでもある。そうしたトリエンナーレのひとつとしての横トリ2011はどうだろうか。
これまでの横トリでは国際交流基金がキープレーヤーであり、総予算8億円のうち4億円ほどの予算を毎回提供していた。国際交流基金は外務省の外郭団体であることもあり、海外のアーティストを国内に招聘することに注力しているようだった。
しかし、業務仕分けの影響でこれが後退(すっかり消えたわけではないが)。代わって文化庁からその分の予算が捻出されることになった。それに伴い国内アーティストの比率が高まることになったと聞く。
私は今回のラインアップを見て海外のスタープレーヤーが手厚くない印象を受けた。
映像系でこそカンヌ・パルムドールのアピチャッポン・ウィーセラタクンとヴェネチア・金獅子賞受賞のクリスチャン・マークレーと充実しているが、それ以外のビッグネームではオノ・ヨーコ、マイク・ケリー、ダミアン・ハーストくらい。
一方、国内作家では、見るに値するのは横尾忠則と杉本博司の超ベテランくらいだった。名和、小谷、曽根、ホンマなど昨年から今年にかけて大規模な個展を行った若手作家は姿が見えない。世界に対して日本の現代アートの今日を伝えるのに田中功起や冨井大裕、岩崎貴宏だけでいいのかと思う。
以前の横トリでは、世界に触れた興奮と、消化しきれないものをたくさん詰め込んだモヤモヤで満たされて、もう一回、もう一回と会場に足を運んだものだった。
今回展の横浜美術館とBankARTをひと通り見ての満足度は、都現美の企画展と常設展を見て、それから清澄白河のギャラリーめぐりをしたくらいに過ぎない。私には横トリの満足度はこんなものではなかった感がある。
311の影がなさすぎて居心地悪い
横トリ2011のテーマは「OUR MAGIC HOUR 世界をどこまで知ることができるか?」である。
科学や理性では解き明かせない領域に改めて眼を向けることで、これまで周辺と捉えられていた、あるいは忘れ去られていた価値観や、人と自然の関係について考えるとともに、より柔軟で開かれた世界との関わり方や、物事・歴史の異なる見方を示唆しようとするものです。「コンセプトについて アーティスティック・ディレクター 三木あき子(ヨコハマトリエンナーレ2011 公式ウェブサイトより)」
このテーマ自体を否定するものではないが、「現代」アートの国際展である横トリは、311という事象をどのように捉えるのかというメッセージがあるべきではないのか。
震災以来、多くの日本人作家、特に若い作家たちが自分の活動がこの事象にどんな意味があるのかと惑う姿を多く見てきた。今日の社会状況に現代のアートはどんな解釈をするのか、あるいはどのような方向性を示せるのか、国内最大級の国際展である横トリがせめて取り組む姿勢を見せて欲しいと思うのは期待しすぎだろうか。
しかし、ウェブサイトにも組織委員会スタッフの発言にも311の影が見当たらない。それを反映して会場にもその影がない。見事に普通の展示会であり、私にはそれがかえって居心地悪い。
311に関わりのある作品について言うと、ハツシバやスーザン・ノリーなど一部の作家が触れている。
しかし、何よりも横尾忠則の部屋が素晴らしい。暗いY字路の絵画で埋め尽くしたこの部屋にいると、とても心が落ち着く。左に行っても暗闇、右に行っても暗闇、どちらに行っても不安な先行きだけど、だからってここに留まっている?と問いかけられているようだ。
先行きの見えない不安な世の中だからこそ、こうした不安な映像が人の心を鎮静化させるのかもしれない。
というように、ごく一部の作家は明示的にか非明示的にか311を意識している。であれば、キュレーションとして急遽何らかの動きがあってもよかったのではないか。例えば311以降の世界に惑う姿をあからさまにすることを厭わない下道基行を急遽、起用したらどうだったろうかと空想してみる。
他にも新報ピアや黄金町の関連プログラムががっかりだったことや、2008では好評だったアメリア・アレナス的対話型ガイドがなくなったことなど、他もに言いたいことはたくさんあるが、とりあえず大きな点だけを吐き出しておく。ちょっと気が晴れた。