レオ・ルビンファイン 傷ついた街+所蔵作品展「近代日本の美術」@東京国立近代美術館
レオ・ルビンファイン 傷ついた街+所蔵作品展「近代日本の美術」@東京国立近代美術館
近美ギャラリーの小企画展は、アメリカの写真家レオ・ルビンファインの個展。彼は911以降の数年間にわたり、ニューヨーク以外の都市を巡って街を行く人々の表情を撮った。それはこの事件が世界の人々の心にどのような影響を及ぼしたのかを探るため。
会場の壁から壁までに渡したバーに大判のインクジェットプリントをクリップで留めて吊るしただけというシンプルな会場構成。それが個々の写真の価値をフラットにしており、また、世界のどの表情も等しい価値を持つという印象を与えている。
911の心理的影響を世界の街の人々の表情から写し撮るという手法が有効かは疑問だが、実際、マニラ、イスタンブール、東京、ソウルなどで撮られた人々の表情は人種や環境の違いにかかわらず違いがないように見える。同じように不機嫌だし、同じように他人に無関心だし、同じように自分に関心を持たれないことが不愉快そうだ。
911当日についてとその後の活動についての膨大なテキストを記載した図録は興味深かった。
さて、いつものように近美の常設めぐり。
季節モノとしては国吉康夫の「秋のたそがれ」(1929)がよかった。ちょっとした散歩中にみつけた秋のひとときという風情。エトランジェとしての生涯を送った国吉は、こうした街角のなんでもないひとときに安らぎを覚えたのか。
いつも楽しみにしている戦争画は、田中佐一郎「拉孟守備隊の死守」(1944)と三輪晁勢「キャビテ軍港攻撃」(1942)。偵察中の小隊の様子を描く田中の作品では壮年兵や少年兵それぞれの表情が楽しめる。三輪作品は軍港空襲の遠景で現実味のない戦争風景だった。
2階の現代美術エリアには高松二郎の「ガラスの単体」(1971)と「木の単体」(1971)があった。単体シリーズはユミコチバ・アソシエイツでもいくつか見た。そろそろ本気で高松を現代の視点から解釈するような大規模個展を見てみたい。
最後の部屋で三瀬夏之介の「日本の絵(富士山)」(2005)に再会できた。日本とは何か?とか、日本画とは何か?というその概念を問い直す「東北画は可能か?」という活動を行なっている三瀬の絵描く富士は過剰で饒舌で混沌としている。それだけに鑑賞する楽しみも深い。
つい先日のIZU PHOTO MUSEUMの「幻景富士ー富士にみる日本人の肖像」でも近代以降の富士山の写真から日本という国について問い直す展示会をみたばかり。どちらもその多くの側面を混沌としたまま提示する手法が興味深い。