原爆の図丸木美術館 / Maruki Gallery For The Hiroshima Panels
原爆の図 丸木美術館
ある方のオススメで急遽行くことに。桐生の大川美術館から北関東ぐるっとまわっての東松山だったから遠かったが、初めて見る「原爆の図」は期待通りの価値ある作品だった。
丸木美術館には丸木位里・丸木俊の「原爆の図」14点が常設展示してある。丸木夫妻は原爆投下直後に広島入りした。そして、そこで目撃し、経験したことを基に、5年後に第一部「幽霊」を共同制作。その後、「火」「水」「虹」などが順次制作されていくが、同時に国内外で作品の巡回が行われる。その巡回展は各地で好評を博し、やがて「原爆の図」は反原爆運動のシンボルとなった。
巡回展は1950年から国内各地で51回以上行われた。また、1953年から海外でもコペンハーゲンを初め20カ国で行われた。展示会場では作品の前で被災者が体験を語ることがあり、原爆研究者が自身の研究について語ることもあったという。「原爆の図」の巡回展については資料が散逸して不明の点も多いが、いくつか研究資料もある。たとえばこちら。
さて、作品としての「原爆の図」は巨大な屏風画で、ヒロシマの様々な局面がダイナミックかつ詳細に描かれている。巨大な作品だけどかなり近くに寄って見られるので、歩きながら個々の生と死に没入して見るのがいいと思う。
各作品には丸木俊による解説文があり、これがまた胸に迫る名文。これを読みながら見るとさらに理解が深まる。
作品に描かれるのは女性が多く、しかも豊満な肉体が美しく描かれているように思えた。当時の巡回展でこれを見た被災者が「現実はこんなものでない」と意見をしたことがあったらしい。伝えられるヒロシマの状況からすると確かに「原爆の図」はきれいごとに描かれているのかもしれない。
しかし、私は悲惨な出来事を写実的にそのまま描くことがアートのやり方ではないとも思う。若くして亡くなっていった者たちを鎮魂する気持ちから死の姿を美しく描くことが必要だったのではないだろうか。それがかえってヒロシマという出来事のとりかえしのつかなさを浮かび上がらせることにもなったと思う。
「原爆の図」は、テーマとその表現の深みから戦後アートの重要な作品群だと思う。それがこうしたアクセスの良くない場所に置いてあるのはもったいない。こうした大きな社会的意味を持つアート作品は、あたかも聖地と巡礼のような方法によって人の目に触れさせるよりも、社会の中、人々の中に浸透させるべきだと思う。
この絵が初めて公開された1950年のアンデパンダン展で、被災者のひとりが「このくらいのことで原爆を描いたと思うては困ります。もっともっと描いて下さい。これはあんたたちが描いたから自分の絵だと思うとるかもしれませんが、これはわたしたちの絵です」と丸木夫妻に語ったいうエピソードを聞いてますますそう思った。
例えば、都庁のワンダーウォールに半分ずつ設置し、定期的に入れ替えるとかしたらどうだろうか。今日、本気で活動する者がいれば実現は決して夢ではないと思うが。
ところで、先日別の展示会で、丸木夫妻が麻生三郎、松本竣介らとともに戦前に池袋の芸術家村にいたことを知った。他の作家は社会と芸術運動の流れに沿ってテーマも表現も変えていったのに対して、丸木夫妻はヒロシマと反核・反戦運動をテーマに据え、表現手法を変えることはなかった。
私はこうした作家のあり方が決して否定されるものではないと思う。ともすれば後年分かりやすい変遷を経た作家が評論の対象になりやすいのだが、手法を深めるよりも社会に向き合い、人々と語り合うことに手間を費やす方が、作品が社会に大きな影響を残すこともある。「原爆の図」はその好例だと思う。
美術館には丸木夫妻のアトリエを利用した休憩室がある。日当たりの良い気持ちのいい部屋だった。窓辺の長机で作品制作をしたり、こたつで関係者と語り合ったのだろうと想像できる。こうしたのどかな環境から生み出された作品だからこそ、「原爆の図」が息の長いとりくみになったのだろう。