国立新美術館開館5周年「セザンヌ-パリとプロヴァンス」展 | 美術館・博物館・展覧会ならミュージアムカフェ
「セザンヌ―パリとプロヴァンス」展@国立新美術館
平日の午前中だというのに立ち止まって見られないほどの込み具合。なのでさらっと流してみただけだが、点数が多くてそれなりに満足した。
セザンヌはラフで中途半端な作品ばかりという印象があった。しかし、これだけの点数を見ると、それがいつのまにか好ましく思えてくる。
「四季」(1860-61)の4作品も大きいだけで綿密さに欠けているし、完成させようという意思が感じられない。
その他の作品も明らかな塗り残しがあった。「横たわる少年」(1887)や「3人の水浴の女たち」(1876-77)などでは人物の手や足を省略している。
しかし、彼の作品を多く見ていると、完成させることに何の意味があるのかと思えてくる。
絵画を映像を伝達するメディアとして捉えるならば、完成させる必要などないのかもしれない。なのでサロンを拒否しているという意味ではセザンヌはモネやルノアールなどよりもよっぽど過激で前衛だったのかもしれない。
人物では「坐る農夫」(1900-04)の頭部と手の極度なアンバランスに惹かれた。また、明らかに固定を欠いた静物では、あえてコインなどを設置して落ち着かない配置にしていることを初めて知った。
これらを見ていると、後年のキュービズムなどの安定性を欠いた映像との関連を考えてみたくなる。セザンヌを直後の印象派とつなげるよりもキュービズムやフォービズムと関連させて論じる人が多いのもうなずける。
ひととおり見たが納得いかないものがあり、新美3階のライブラリで図録をじっくりと読み、その中に「セザンヌからマティスへ」(長屋光枝)という文章を見つけた。彼は同時代には受け入れられなかったが、数十年とばして20世紀初頭から中期の表現に影響が大きかったらしい。いい勉強になりました。