映画『わたしを離さないで』

映画「わたしを離さないで」

(完全にネタバレです)

カズオ・イシグロ原作の臓器移植をテーマとしたパラレルワールドストーリー。

「プライドと偏見」のキーラ・ナイトレイとキャリー・マリガン、それに「ソーシャル・ネットワーク」のアンドリュー・ガーフィールドと、若手俳優を揃えた割には輝きのない、哀しみをたたえた映画。

臓器移植のための人工授精ドナー児の育成が制度化された世界。そのドナーが少年時代を過ごす寄宿舎で出会ったふたりの少女と少年の短い人生の物語。

彼らは生き延びるためにほんの僅かな試みをするだけで、淡々と運命を受け入れ、臓器を提供し、死んでいく。

そんなストーリーであることが最初から分かってしまうので、少年時代の幼い恋のエピソードも、成長してからの3人の関係の葛藤も、必然的に哀しみを色濃く帯びる。

本来ならピカピカと輝くはずの若手俳優たちが、それぞれの人物を演ずれば演ずるほど哀しみが深くなる。

特にキャリー・マリガンの演ずる、内気で思慮深い少女はとても魅力的。そして、彼女が成長するにつれ、その瞳がすべてを見通す知性と諦めを宿すようになるところがまた胸を打つ。

その他の演出もまた奥深い。

寄宿舎やコテージに出入りする業者の感情を押し殺したような対応も、死にゆく定めの若者を相手にあれ以外どうすればいいのかと思わせる。

そして、後半再登場する校長先生(シャーロット・ランプリング!)のキャラクター転換。彼女は子どもたちを抑圧していたのではなく、短い人生を充実させるために闘争していたのだ。

ところが、クラスで真実を伝えてから立ち去る教師の方が実は恐ろしい。彼女には進歩的思想の狂信が宿っていた。

この物語世界の感性をすべて受け入れるならば、これはテーマが奥深く、映像も役者の演技も満足度の高い映画である。

しかし、そこには人権に関する議論がまったくない。ドナーたちには逃走も、生き延びるための闘いもない。これはロマンチシズムにどっぷりと浸った敗北主義の蔓延した物語でもある。

もし、この映画が社会問題の提起であるならば制度の外側から描かなくてはならないのだろう。

つまり、不治の病という不安から人類が開放されるために、個々のドナーの人生に目をつぶっている側からの目覚めが必要なのだ。主要な登場人物がドナー側だけなので、この映画は感傷的なだけの作品になっている。

ところで、このように不治の病から人類が開放されるためにはこうした制度は仕方がない、という言い訳があまりにも安易であることを、私たちはつい最近知ったのではないだろうか。

私はこの映画を観て、今日の日本の原発を巡る議論のことを思った。私たちは快適な生活や経済発展を言い訳に原発についての根本的な危険性のことを議論してこなかった。

「原発立地の人々の危険性と引き換えにある首都圏の快適さと発展」は、この映画の「ドナーと社会」の関係にぴったりと重なる。