映画「八日目の蝉」

映画「八日目の蝉」

小説では希和子と薫の過去の逃避行を第一部、薫(恵理菜)と千草の旅を第二部という構成だったし、ドラマもこれをほぼ忠実になぞったものだった。

しかし、映画は成長した薫のいる現在を中心に、過去の逃避行を追憶するという構成になった。映像と時間を操作する映画というメディアでは、これは正解だった。しかし、構成が複雑になり観るものが混乱しやすくなるのは避けられない。

中にはこうした構成を職人芸で手際よく編集してみせる映画もよくあり、そうした編集アクロバットを楽しむべきものもある。しかし、この映画の場合はかなり手際がわるい。小説やドラマを読んでいない者の中にはストーリーに追いつけない人もいるのではないか。

でも、現代と過去を行ったり来たりするその手際の悪さが、いつの間にか好ましく思えてくる。それは、スタッフと役者のこの物語への体当たり具合がひしひしと伝わってくるからかもしれない。

とにかく、前半ではどのシーンでも誰かしらシクシク泣いている。あるいは無表情に目を見開いている女ばかりが出てくる。そして、男は物語の周縁部でひたすらうろたえている。角田光代の小説ではお馴染みの人物配置。

現代を物語のベースにしたせいか、現在進行形の魂の彷徨をぎこちない笑顔で演じた薫役の井上真央が予想外に素晴らしい。また、小池栄子も生きるのに不器用な若い女を見事に演じていた。

その童顔とアイドル風の笑顔でミスキャストではと思った永作博美は、そのアンバランスさが、かえっていつまでたっても子育てに慣れない擬似母親の心象と重なってくる。

そもそも、この物語は底知れない人間の愚かさと、それに反比例して高まる人生の愛おしさを描いているのだと思う。希和子も恵津子も、迷惑なだけの男達も、そして成長した薫でさえも愚かな人生を生きている。

希和子の最後のあの一言でさえあまりにも凡庸だった。しかし、最後の最後にそんな凡庸な言葉しか発することしかできないその人の人生の愚かしさが私を激しく揺さぶった。それはフェリー埠頭に急ぐ夜道のシーンでもすでにぐらぐらと揺らされた。ホントにバカ、でも愛おしい。

この映画の魅力は不器用で荒削りなところだと思う。それゆえ「八日目の蝉」という物語は、これから繰り返しリメイクされていく映画という立場を手に入れたと思う。私はこの映画は十数年後には必ずリメイクされると思う。

ところで、田中泯の登場はちょっとしたオマケとして気が利いていた。日本映画はフォトジェニックな被写体を手に入れたものだ。