映画「隣る人」
埼玉県の児童養護施設で、理由があって実の親と暮らせない子どもたちとその施設の保育士の8年間を追いかけたドキュメンタリー映画。
上映後、監督が挨拶で「この映画を児童養護施設についての状況や課題をあらわすものにするのを途中で辞めた。人と人のふれあいについての映画にすることにした」と言っていた。
そのままに、これは単にある環境にいる子どもたちと、その環境に寄り添う大人たちの関わりについての映画だった。そのようにして観れば、そうした関わりがいまこの瞬間にも継続して実在するということに静かな感動を覚える。
同じ保育士であっても保育園や学童クラブの指導員は職業だろう。定時になれば帰宅し、自分の家族と過ごすことになる。しかし、この施設の指導員は子どもたちが眠るまで本を読んで聞かせて一緒に布団に入る。朝は子どもたちが起きる前に朝食の準備をする。
そうした職業が持続できるのは、ひとえに家庭を失った子どもたちにどうしても必要なものは「家庭的なものだ」という認識をこの施設の職員と経営者が共有しているからだろう。
目の前にいる子どもたちにとって最も必要なものが何かを理解して、それを提供する。例え職員の生活や人生をかけてでも。それはとてつもないことだと思う。それでも日本中でこの映画にあるような日常が継続していることを思えば、この世界にこうした、とてつもないことは意外と身近にあるのだと認識できる。それをこのドキュメンタリー映画は教えてくれた。
この映画ではまた、家庭における大人と子どもの関係が、親子という一様なものではなく多様なものであることもわかる。
本来、子どもは親が家庭で愛情をかけて育てるべきという考えがある。しかし、ある子どもを最も愛することができるのは実の親だけだろうか。実の親でなくても寄り添い、受け入れることによって子どもが必要とするものを与えることが出来る。ここにその実例がある。(実の親であってもそれを与えることができない場合もある、というのは別の話として)
そもそも、子どもを家庭で親だけ(たとえ母親だけであろうか父親もであろうが)が育てるということは歴史的にもされてこなかった。子どもは祖父母や近所の知人や、ときには他人も含めての関わりのなかで育ってきた。この映画で見た、多くの保育士と支援者、経営者と同じ境遇の子どもたちとの暮らしは、そのことを思い出させてくれた。
子どもたちがママ(保育士)にぴったり貼り付き、愛情を奪い合う様子があるが、それは別にこの環境にいる子どもだからとは思わない。普通の保育園や学童クラブでもよく見かける様子だ。だからこそこのシーンは、むしろ子どもというものの一般的な姿を浮かび上がらせる。
子どもの本質は明るさや歓びにある。そもそも楽しいことが大好きで、暇があれば笑っているものなのだ。日本の保育園の保育士たちの子どもたちに関わる姿勢は、そうした本質への理解に基づいている。
つまり、それを阻害するいろいろなことがあるのでそうなれないだけなのだ。それが分かっているから先生たちは子どもたちにひたすら寄り添う。本当のあなたになりなさい、本当のあなたは素晴らしい人なのだからと。(おそらくそれは日本の保育に特有のことで、西欧では子どもはよりよい人間になるために指導するべき存在なのだろう)
そして、それは考えてみると実の親にはむしろできないことなのかもしれない。実の親では思い入れが大きくて、できないことばかりが目について、あれこれやらせることをしてしまう。だから、ママのような保育士と暮らすことはむしろ違った意味があるのかもしれないとも思った。
ところで、映画に出てくるのは10歳くらいまでの幼児なのだが、ずっと気になっていたのがときどき出てくる大きいお兄ちゃんやお姉ちゃんのこと。
中学生、高校生になると趣味、志向が個別になってくる。そうした年齢の子どもたちに対する先生たちの苦労はまた別物になるだろう。スポーツをやりたい、理科に興味がある、楽器を演奏したい。そうした欲求にどの程度応えて、どの程度あきらめてもらうのだろう。そうした先生たちの葛藤を想像するといたたまれない。
また、施設を出て独り立ちするための手助けや後押しなどは、つまりその後の人生すべてに関わるということ。それもまた、とてつもないことである。
だから、この映画を作った刀川和也監督にはぜひともお兄ちゃん、お姉ちゃん版の「隣る人」を撮ってほしいとツイッターでお願いした。監督から返事が来て検討しますと言ってくれた。
そして監督へお願いするだけでなく、私も児童養護施設で暮らす子どもたちのために何ができるのかを考えたいと思った。
多くの人に見て欲しい映画だった。政府や行政関係者や保育関係者はもちろん、普通の父親や母親にも見て欲しい。子どもと大人の関係についてふりかえることが出来るので。