村山槐多の全貌@岡崎市美術博物館
東京発6時20分の「のぞみ」に乗ったら8時半に東岡崎に着いてしまった。しかし、駅前には何もなくてがっかり。名古屋駅のコメダ珈琲でモーニングでもしてくればよかった。
そこから路線バスで30分、小高い丘の上に建つ岡崎市美術博物館は、別名「ランドスケープミュージアム」。そういうだけあって素晴らしいロケーションだった。
日本の地方美術館の地道な調査活動と熱意と、そして優れた企画力にはいつも感嘆するのだが、ここでも心惹かれる企画展を連発している。昨年行われた「桃源万歳!―東アジア理想郷の系譜―」には東北画の三瀬夏之介の作品も出ていたとのこと。かなり惹かれたのだが行けなかった。
さて、今回のお目当ては村山槐多。14歳で描き始め、22歳で夭折という大正時代の天才画家である。関連資料350点。絵画はもちろん、自作の詩も自筆の小説もあり、大作の謎解きもあって、まさに全貌というにふさわしい展示会だった。
行ったのは土曜日の朝のことだったが会場は多くの来場者でにぎわっていた。実績のある大作家というわけでなし、どのくらい来場者を集められるのだろうと思っていたが良好のようだ。来場者が熱心に鑑賞している様子を見ると、当地に芸術・文化を愛好する厚い層があることがよく分かった。
槐多が奈良へ徒歩旅行したとき、警察署長の好意で署に泊めてもらったことを書いた「警察宿り(とまり)」の自筆原稿がよかった。内容の面白さもさることながら、楷書の文字が一貫しており、紙面デザインへの高いこだわりが感じられた。
展示会は絵を描き始めた14歳から17歳までが「第1章 岡崎に生まれ、京都へ」、東京で本格的に制作活動にうちこむ18歳頃が「第2章 画家を志して上京、謎の大作と盛期」、それ以後、画壇で認められつつ放浪する19歳頃が「第3章 大作の屈辱から野生への眼差しへ」、家族との葛藤に苦しみ、惜しまれながらも病死する22歳までが「第4章 晩年―失恋、闘病の末終焉の地代々木へ」となっている。
こうして展示会場を歩いて彼の人生を概観すると、その短くも激しさに慄然とするとともに、いかに彼が多くの大人たちに愛され、期待されてきたのかもわかる。いち早く才能を見抜き協力を惜しまなかった山本鼎はもちろん、無名作家だった槐多の作品を最初に購入した横山大観、そして与謝野晶子、高村光太郎らの文人たち。彼らは槐多の破滅的なまでに青年らしい気質が、芸術に対する一途さから生じていることを彼の作品から見て取ったのではないか。
彼の作品を多くの美術館が収蔵し、コレクターが熱心に収集していることから、それは今日の人々にも同じようにアピールしていると思う。今日これだけ人々の情感に訴える戦前の日本作家はいないのではなかろうか。
ところで、これだけ彼の作品を一同に見ると、作家としての課題も明らかになるような気がする。言ってみれば輪郭と網カケで描いた人物は素晴らしいが、伝統的な油彩技法で描かれた作品は退屈なのだ。特に風景が、いわゆる中心のない画面でつまらない。
謎解きとしてフィーチャーされた「日曜の遊び」は大作を水彩で描こうとした試みだが、これには大画面の構築に見るところがない。どこといって見るところのない退屈な作品だと思った。しかし、いずれにしてもこれが18歳の作品。あと10年生きていれば身につくことが多かっただろうにと、かえって哀しみに誘われる。
それに対して人物画の魅力的なこと。油彩でもきっぱりとした墨の描線と綿密に描かれた眼と鼻には引き込まれずにはいられない。そして、作家がどういう気持ちで描いているのかが手に取るように伝わってくる。
「紙風船をかぶれる自画像」「尿する裸僧」「山本たけ像」「バラと少女」。モデルに対してはもちろん、これを描いた画家のことにも好意を覚えずにはいられない。特に江戸川乱歩が熱望して手に入れたという「二少年図」のピンクの頬が瑞々しいこと。また、このキャプションにあった乱歩が影響を受けたとされる村山の小説とはどれのことだろう。とても興味をそそられた。