「森と芸術」@東京都庭園美術館
キュレーションがしっかりしていれば、有名作家でなくても有名作品がなくても十分楽しめる展示会はできる。
巖谷國士監修の本展を見てそう思った。取り上げた作品も、展示構成も、キャプションの文章も、文学的視点や文化論たっぷりの、単なる美術展を超えた知的なエンターテインメントだった。
第1章「楽園としての森」にあるアンドレ・ボーシャン「楽園」(1954)は終戦後9年目の作品。描かれる楽園にはエヴァの姿が見えない。それ以前の単純な憧憬に満ちた楽園イメージとの変化が、殺戮の時代を経た西欧の心象を現して哀しみを誘う。
第2章「神話と伝説の森」にはケルト人について、オークの木とどんぐりについてなどのキャプションがあり、メルヘン作家としての巖谷の適切な配慮があった。「指輪物語」の最初の章でトールキンがホビットについての考察を延々としていたことを思い出して微笑ましくなった。
第3章「風景画のなかの森」で興味深かったのはバルビゾン派と写真の関係について。当時の写真家たちが、コロー、ミレー、ラペーニャらが描く田園風景を参考にそれらしい風景を写真に収め、画家たちがそれを基にアトリエで絵を描く。当時の写真家と画家たちの相互関係はそんなものかと勉強になった。
第5章「庭園と聖なる森」のキャプションではイギリス式庭園とフランス式庭園の違い、さらにはマニエリスム庭園についても言及している。提供される知識が美術展とは思えないくらいたくさんある。また、ここで見た川田喜久治撮影によるイタリア、ボマルツォの怪物公園には激しく萌えた。
また、第6章「メルヘンと絵本の森」にあった軽井沢のエルツおもちゃ博物館のクリスマスピラミッドにそそられた。段階状に配置された回転盤上のろうそくを灯すと上端の羽根が回転し、回転盤も回りだすという仕組み。ぜひとも灯してみたい。
巖谷と言えばシュルレアリズムを思い出すものだが、第7章「シュルレアリスムの森」には瀧口修造とアンドレ・ブルトンの邂逅の写真があった。そこでシュール運動における女性作家についても触れており、その中ではシュールからケルトの民族性に移り、メキシコ文化に至ったというレオノーラ・キャリントンが興味深い。
第8章「日本列島の森」では岡本太郎の縄文土器からジブリの男鹿和雄までを取り上げている。
美術館の入り口では東京大学総合研究博物館のモバイルミュージアムから「森のカメラ・オブスクラ」まで動員しており、それにしても展示が多様である。
こうして展示を見終わると巖谷の描いた森と人間についての一冊の本を歩いて読み終えたような気分になり、知的に深い満足感がある。有名作家や有名作品に頼らない、企画力と徹底したリサーチによる素晴らしい展示会を目の当たりにした思いがする。
原発事故以来、海外の作品貸し出しが滞っているらしいが、今回展示の235点はほぼすべて国内の収蔵作品だった。美術館の企画力が試される時代が来たと言われるが、先ずは満足の行く先例を見せていただいた。