18th 未来を担う美術家たち 文化庁芸術家在外研修の成果|DOMANI・明日展
DOMANI 明日展@国立新美術館
文化庁助成による海外アーティスト・イン・レジデンス作家の成果発表展示会。なぜかここ数年は毎年行っているが、年ごとに当たり外れが大きい。
最初の部屋の山口牧子は荒いカンバスに薄い色を何度も塗り重ねた油彩画。おそらく顔料なども使っているのだろうか、抽象画的な日本画の味わいがある。英国留学の成果と言われれば北国の空が思い浮かぶ。
綿引展子をみてファブリックアートを初めて面白いと感じた。おそらく古着や古いシーツなどを使っている大きめの作品は、全体的に黄ばんでいたり、ところどころシミができていたり。
素材の柄や色をつかって、手を伸ばしている人物や、天井や床を支えている人物の形をつくっている。中にはキャンバスにシャツやトレーナー、パジャマの袖を縫いつけて垂らしている作品も。それは思わず手にとって中身があるのか確かめてみたくなる。
人のかたちを表現するのに実際に使われていた布を使うと、作品に多くの意味を込めることになる。誰が着ていたんだろう、何回くらい洗濯したんだろう。どうして捨てられることになったんだろうなど。そして、どうしてこうして手を伸ばしているんだろうなどと。というふうに、今回、ファブリックアートがテクスチャの面白さや感触だけで見るべきではないということが分かった。
津田睦美の展示は太平洋戦中に日本人がニューカレドニア島で抑留されたことについてのルポルタージュ。しかし、これがアートとして展示されていることが不思議だった。
アジア各地に現存する鳥居を撮影してまわった下道基行のような内省的な行為は、アートの文脈を容易に読み取りることができる。しかし、津田のこの展示はアートと呼ぶには事実と対象に寄り添いすぎだった。その事実に今を生きる自分の咀嚼行為があればよかったのにと思った。
児島サコは実験マウスの悲惨な様子の油彩画と大画面プロジェクションによるイメージ映像。これもモチーフやテーマに対してセンチメンタリズムを超えた何かがほしかった。
45周年の特別展示ゾーンに相笠昌義のいつもと変わらない新作があった。また、近美で見て気に入った丸山直文の新作「clouds」もあった。上記の山口牧子と共通する感触があるが、こちらの方がはるかに思い切りがいい。
元田久治の廃墟アートにはどうしてもそそられなかった。
実存する廃墟が人をひきつけるのはそこに人の営みがあったからだと思う。軍艦島、炭鉱町、廃工場、閉鎖されたアミューズメントパーク。また、空想の廃墟の映像が繰り返し映画などで映像化されるのは、そうなるに至った膨大なストーリーがそこにあるからだ。「猿の惑星」のエンディング、「アイ・アム・レジェンド」の人気のないマンハッタン。
元田の描く国会議事堂や東京タワーには、そうなるに至ったストーリーが浮かばない。こうなるしかなかった、という意思ではなく、とりあえずもっとも有名なものを廃墟にしてみました的な面白がりしか伝わってこない。例えば朽ちていく膨大な小さな暮らしの積み重ねがあり、その象徴的な一瞬にそれがあるのならストーリテリングとして効果的だと思うのだが。
といいつつ、自分でもずっとむかしにカタストロフィをテーマにした作品を制作したことがあったのを思い出した。