「S/N」から“発明”する社会と繋がる方法論@早稲田大学小野記念講堂
「S/N」から“発明”する社会と繋がる方法論@早稲田大学小野記念講堂
早稲田大学演劇博物館で行われている、90年代の京都とダムタイプの「S/N」に関するアーカイブ展の関連イベント。第1部が「S/N」のビデオ上映、第2部が関係者によるシンポジウムだった。200席の会場がいっぱいで、このテーマでこんなに人が集まるとは思わなかった。
「S/N」を見るのは3回目。なので今回は特にいつもは読み飛ばしがちのテキストをメモしながら見た。
「conspiracy of silence/conspiracy of science/conspiracy of scientia」という問題提起から始まり、「I dream…, my … will disappear.」のモノローグも力強い。
しかし、最も印象的だったのは「日本人」の「ろう」の「男性」の「ホモセクシュアル」であるアレックスと、セックスワーカーのブブが肉体でやりとりするシークエンスで、アレックスが聞き取りにくい言葉で発するテキストだった。
あなたが何を言っているのかわからない
でも あなたが何を言いたいのかはわかる
私はあなたの愛に依存しない あなたとの愛を発明するのだ
これは、世の中のコードに合わせるためのディシプリン
ディスコミュニケーションを乗り越えるための徒労のような長い行いを経て発信されるこの宣言は、絶望と不屈を併せ持っているようだった。
AIDS、障害者、セックスワーカー、ホモセクシュアルなど、「S/N」のテーマは社会的マイノリティである。90年代の演劇でマイノリティやディスコミュニケーションについて取り上げることは珍しいことではない。むしろありふれている。しかし、「S/N」が衝撃的だったのは役者がそれらを演ずるのではなく、本物のAIDS保持者、ろう者、セックスワーカー、ホモセクシュアルが自ら本人としてステージに登場していることである。
また、シンポジウムでキュレーターの四方幸子がダムタイプの特徴としてワークス・イン・プログレスを挙げていた。これはアート業界では馴染みのあるフレーズであり、アートファンにはそれを許容する土壌もある。しかし、興行という、チケットを販売して客席を埋めるというシステムの確立した演劇業界では、このワークス・イン・プログレスは受け入れがたいものではないか。
その点からもダムタイプが演劇やステージというよりもアートとしてアートファンに高く支持されるのは分かる。
ところで、私は以前からアレックスに興味があったのだが、シンポジウムの質問タイムに会場から手話による彼についての質問があった。
「S/N」に出演したブブ・ド・ラ・マドレーヌによると、ダムタイプのリーダー的存在の古橋悌二は人間の相対化を印象づけるために出演者にろう者が必要だった。アレックスは画家志望の青年だったが古橋の説得を受けて絵画以外の自己表現方法として出演することにした、とのこと。
質問をしたろう者の方によると、アレックスとは一度会ったことがあり、彼が手話を出来なかったことに驚いたとのことだった。私はここにも「S/N」のテーマであるボーダーの諸相があるのだなあと思った。
シンポジウムの参加者でダムタイプの直接の当事者といえばブブだけで、他はその後に関わった者が多かった。そのためか、議論はかみ合わない印象だった。
しかし、ICCの学芸員である畠中実が、「S/N」は権利関係の理由で今後もビデオ化される予定はない。しかし、むしろそのことがこうしてホールで上映し「S/N」について語り合うことを繰り返す機会となればそれも良い、と言っていたのには同意する。
ビデオはあくまでもリアルなステージの影や記憶に過ぎない。しかし、「S/N」はこうして若い層に繰り返し見てもらいたいステージの影である。