「ヤマネコ・ドーム」津島佑子(講談社)
木村朗子の評論で取り上げられていたので読んでみた。小説を読む歓びはあったが、作家の社会認識は軽薄なものだった。
こんなものが現代社会ではない、混血の私生児の人生はこんなものではない、高齢者の現在はこんなものではないと思いながら読んでいた。これを「震災後文学」の出発点と見るとしたら行く末も知れている。
戦後すぐに生まれた進駐軍の私生児たち。ホームで育った彼らは幼少時に仲間のひとりが池で溺死するのを見てしまう。その時に刻みつけられたオレンジ色のスカートの記憶。その記憶が後年、定期的に起こるオレンジ色と関係のある殺人事件と結び付けられ、彼らを苦しめることになる、というストーリー。
混血の私生児というアウトサイダーであること、やがてそれぞれが外国に養子として引き取られていくこと、成長してからも徴兵や家庭問題があり、という戦後から現代までの人生物語で読みごたえがある。
しかし、この小説が、どうしてこうした特殊な生い立ちの群像を描かなければならないのか最後まで納得できなかった。
主要な登場人物である黒人との混血児のカズ、足が不自由なミッチにしても、最後までそれなりに気ままな生活をしているし、ヨン子の母は寝たきりになったので高齢者ホームを「建ててもらう」。
そうした特殊な人生を取り上げていることで、私はちっとも共感できなかったし、登場人物を好きになることができなかった。
それから、冒頭と最後に放射能の「煮こごり」に満たされた日本が唐突に描かれる。長編小説であればそれが納得できるような積み重ねが必要だろうが、それがないので作者がそう感じているという一方的な表出としか読めない。
特徴的と言われるこの小説の語り口であるが、それは幼少期から中高年にいたる半生の物語を、ときどきの登場人物のひとり語り(風)で描くというもの。ラテン文学や日本の私小説を読んでいればついていけない程度ではない。
しかし、8歳のひとり語りと50代になってからのひとり語りが、ほとんど変わらない。50代の男の意識の流れはこんなものか?と大きな違和感がまたわきあがってくる。それでまたさらに登場人物に感情移入できなくなる。
「震災後文学」というものがあるとして、それにできることは、戦後の社会に生きた誰か、震災と原発事故当時の誰か、これからの誰かという一人ひとりを深く描くことではないか。その深さが現代人すべての意識の底に届くまで。
その役割を今日ではドキュメンタリー映画やYouTube動画、SNSが担っている。だから文学なんてもう必要ないのではないかと考えられていることに現代の作家は気づいた方がいい。