「旅の時間」吉田健一(講談社文芸文庫)
豊かな旅の時間についての小説である。絵空事ではあるが、時間を費やして没頭する価値のある絵空事である。
移動中の旅客機、客船、東北へ向かう列車、パリ、大阪、英国の田舎、ニューヨーク、ロンドン、神戸、京都。旅人が出会う玄妙な空間と時間そして人を描いて、旅という非日常の感覚をこのうえなく表現している。
いずれの旅人も名所旧跡をめぐってあくせくすることなく、どこへ行っても感心することがない。世界中どこに行っても世の中があり、自分がいるだけ。それゆえにまたこの世界は飽きることなく、驚きに満ちているということを教えてくれる。
英国の大学で知り合った友人に招待された田舎の屋敷では、歓待されることもなく当地での休暇の日々を過ごす。しかし、それがその国の歴史から醸される真の豊かさであると知る。
うだるようなニューヨークの夏はようやく夕方からバーに出かけ、馴染みのバーテンダーがつくるブラッディマリーを何杯もあおる。それが毎日続く。もちろんメトロポリタンに行くこともない。
そうしてその街で自分にとって最も適していると思うことを繰り返すこと。それがその街を知るためのひとつの方法である。そして、それは大人の旅の流儀でもある。
それは移動することにもあり、酒を飲み、うまいものを食べ、奇妙な人物と出会うこと。それが自分がいるひとつの空間が高速で移動している感覚を理解するひとつの優れた方法である。
酒や食べ物は高価なものでなくていい。東北本線の客車で飲むアイリッシュウィスキーは意識をアジア大陸に広げさせる。
日本人の大好きな京都については、吉田はあの分かりやすい町並みに迷いを配し、もうひとつの古都である奈良への愛情をすべりこませた。その手法は小説もまたひとつの旅する方法であることを気づかせてくれる。
今度は「金沢」を再読して、街に滞在することを楽しんでみたくなった。