映画『「遺言」原発さえなければ』@武蔵大学

映画『遺言』原発さえなければ@武蔵大学

日曜日の武蔵大学・江古田キャンパスでの自主上映会。大きめの教室だったが意外と来場者が少ない。むしろ関係者の姿が目立っていた。

映画は飯舘村で畜産農家を営む数家族の、被災から3年間の密着ドキュメンタリー。原発からやや離れていたため放射能汚染について詳しく知らされずに過ごした1ヶ月間。乳牛を手放し仮設住宅に移ってからの1年間。畜産農家仲間の自死。そして、パイロット牧場の試みの始まりまでを描いている。

1部と2部、休憩をはさんで合計4時間という長さだが、ちっともそう感じなかった。それは次々と起こる事態に引き込まれたからでもあるが、一番の理由は登場する飯館村の人々が魅力的だからである。

どうして、たまたま原発事故被害にあった人々があのように魅力的であったのか。また、どうして、この映画作家たちが、たまたまこの人々に巡りあったのか。天の配剤という言葉を思う。作られるべくして作られたこれは名作である。

しかし、だからこそ事故以前の映像があったらと、ないものねだりもしてみたくなる。

原発事故と被災、避難は非日常である。非日常は日常の中に放り込まれてこそ際立つ。これは劇映画であってもいいのでは、と思えた初めての原発ドキュメンタリー映画だった。

線量計のピーピーという音をバックグラウンドに映し出される田舎の景色は美しい。たとえ「今年は虫が出ない、(だから)トンボもいない」という、地元の人にとっては異質な景色であろうとも。また、大規模な畜産農業に否定的で、あくまでも数頭の乳牛を個人農家として経営するという心意気も美しい。

だが、監督のアフタートークによると、震災3年目のそうした景色も現在では除染土が覆われた黒いビニールが連なる景色になりつつあるという。また、私は近年の日本の農業を考えるにつけ、個人経営農家の将来に悲観的にならざるを得ない。

だから、この映画は、監督もそう言っていたように必要な記録なのだと思う。変化を余儀なくされた人間たち、失われた土地のある時間を記録した貴重な映像なのである。