「震災後文学論 あたらしい日本文学のために」木村朗子(青土社)
日本文学を読まなくなって久しいが、震災後というか原発事故後の日本文学はどうなっているのか興味が出て読んでみた。
川上弘美、いとうせいこう、多和田葉子、高橋源一郎、辺見庸が現代のキープレーヤーらしい。いずれもしばらく前は本流ではなく、周辺にいた作家たち。いかにも重量感がないという印象。
木村によると原発以前も以後も日本作家たちは、ふれてはいけないことに関わらないという同調圧力にとらわれている。海外からは、このような事故を経て日本の文学者たちが注目されているのに、あまりの変わらなさに失望されているのだそうだ。
日本と海外の文学界だけみているとそのように見えるのかもしれないが、私からすると文学以外のメディアはそれなりに発信しているように見える。
木村も章を割いているがドキュメンタリー映画の躍動ぶりは印象に残っているし、ネットメディアも質はどうあれ量的には天文学的に拡大した。「すばる」「群像」など相変わらずのメディアと実際に露出量を比較してみるといい。
「震災後文学」はまだ潮流を形成するほど作品数がない、よって表現の幅もテーマの幅も広がっていないと私は思う。
戦後文学が文学史でひとつの流れと認められるまでにはそれなりの時間がかかった。しかし、その時代には小説や評論がひろく世間に受け止められていた。とうぜん作家や編集者などプレーヤーも多かった。
現代の文学界が置かれている量と質の状況で「震災後文学」が「戦後文学」と比較できるほどの影響を持てるかは、そうした状況も改善していかなければならない。きわめて厳しい、ほぼ期待できないと思う。
一方、いち小説家としてこんな時代になにができるのか。結局は物語と語り口という武器を磨くことではないのか。その意味で津島佑子「ヤマネコ・ドーム」だけは読んでみたいと思った。