18th 未来を担う美術家たち 文化庁芸術家在外研修の成果|DOMANI・明日展
16th DOMANI・明日展@国立新美術館
文化庁海外派遣事業の成果発表なのだが、今年はなぜか建築家の展示が大きかった。しかし、3分の1のスペースに43人のアーキテクトというブース展示に無理がある。
建築という空間を扱うものの展示にはスペースが必要だろう。近美の「建築はどこにあるの?」ではそれなりに大きなスペースでコンセプトインスタレーションを展示していて、それぞれのもつ空間感覚を体感することができた。
ギャラリー間は小さなスペースながら内外の空間を活かして良い展示をしている。中庭スペースに住吉の長屋を実物再現していたのが忘れられない。
1人の建築家に1個のブースを割り当てて勝手にしなさいというのではダメだろう。まずは作家数を絞り込んだうえでこの空間をどう使うのか討議させたらどうだったろう。聞き取り、調整、施工というのが建築家の本領だろうに。
そのおかげでアートのスペースも人数も絞りこまれてとても不満だったのだが、いくつか気持ちのいい時間をすごせたのもあった。
大栗恵の空気を感じる写真はよかった。プールの水中から階段を撮ったのがあってタルコフスキーのノスタルジアを思い出した。
吉本直子の圧縮シャツはド迫力だった。
人間の着た洋服を素材にした作品はよくある。こうしたものをみるたび、私は軽井沢セゾンにあるアンゼルム・キーファーの「革命の女たち」を思い出す。あれはシャツではなく鉛のベッドだが、暴力的なまでの自己主張がある。それだけ表現への内圧があるのだろう。
今日の作家にそうした吐き出さないではいられない何かがあるのか、今回もそれを思った。
榊原澄人のアニメーションは達者な動きではあったがアートとして評価できるなにかがあったのかは疑問。これはメディア芸術祭で見るべきものじゃないか。
それから、作家や作品の問題ではないが、この音楽が会場中に響いていてとても不快だった。
至福のときを過ごせたのが小笠原美環の部屋。この部屋にソファがあったら半日いられる。
2012年からの新作が中心だったがますます人物が少なくなった。いずれも建物の内部から外を見る、ないしは室外の気配を感じるという作品。
窓から屋外を見つめる人物は輪郭が消えそうで、この人にとって窓外とは何なのか。畏れ?憧れ?
病院の廊下を思わせる建物の室内は外光が差し込んでるが、その光は救いなのか、それとも避けるべきものなのか。
もはや一枚の絵画は一遍の長編小説である。
ハンマースホイという作家がいて、その棲家と家族を描いた絵画は、人がこれからの人生で目にするあらゆるものに引用されるべき映像だ。小笠原の作品群もそうしたものだろうと思う。
この部屋にいて、目が見えるうちにいろんなものを見ておきたい。そんなことを考えた。