帝国の慰安婦 ―植民地支配と記憶の闘い 朴裕河(朝日新聞出版)
韓国の日本文学研究者による慰安婦問題の評論集。研究者らしく情報収集手法が適切であり、解釈・分析についても冷静である。結論と解決への提案については、納得の行くものであるがやや楽観的であると感じた。本書は現在、韓国内では事実上の出版差し止め状態である。
慰安婦問題の議論で必ず取り上げられる、強制連行の有無、軍隊の関与、業者の存在、敗戦後の虐殺、近年の国際機関による報告書について、河野談話、アジア女性基金などすべてのテーマを網羅しており、この問題についての概観を得るためにも最適な読み物となっている。
朴は韓国の元慰安婦支援団体である「挺対協(挺身隊対策協議会)」に批判的である。慰安婦問題を政治問題化させてしまい、慰安婦を支援するという本来の目的から乖離させた責任は重いとする。本書を読んで慄然とするのが、この「挺対協」の主張が最高裁判決に影響を及ぼし、おそらくは大統領の意思決定にも影響を与えているという事実だ。本書にもあるが、それが多くの一般国民の同意に支えられていることを考えると、彼の国の世論のあり方に大いに悲観せざるを得ない。
特に、この運動のシンボルになっている「少女像」のイメージの乖離についてが興味深い。慰安婦として募集された女性の平均年齢は25歳であった。また、慰安婦になったのは学校に行くことができない貧困家庭の女性である。女学生が慰安婦になったという事実は確認されていないという。従軍慰安婦とは「強制的に連れて行かれた20万人の少女たち」である、というイメージを広めるために事実に目をつぶる行為には弁解の余地がないであろう。
本書前半では、慰安婦が問題化する以前の文献から多く引用している。それによる事実には多くの発見がある。いわく、従軍慰安婦を募集したのは軍隊ではなく朝鮮人業者が主体であったこと、朝鮮人慰安婦は日本人より下であったが、敵国女性より上に扱われたこと、兵隊とは同じ日本人として心を通わせたこともあったなど。
朴はこれらが慰安婦という存在を美化するものではなく、植民地化(帝国主義)という国家の行為が慰安婦女性の心までを強制したことであり、許しがたいことであることに変わりはないとする。つまり、慰安婦問題は単なる肉体的、暴力的行為のみならず、精神的な傷、それも重層的な傷を残していることを忘れてはならないのだ。
しかし、現代の元慰安婦支援事業はそうした皇国臣民として共に戦ったという行為を隠蔽して、慰安婦の被害者である側面のみを強調している。それはつまり元慰安婦の記憶を支援の名のもとに封じることに他ならない。それは暴力的とも言えないだろうか。実際に、そうした心情を吐露している「挺対協」に距離を置く元慰安婦も存在するという。
そして、元従軍慰安婦の女性たちに被害者であることのみを強調させることは、娘に教育の機会を与えなかった朝鮮の家父長制度や、実際に女性を慰安所に送り込み、慰安所を運営したのが同じ朝鮮人だったという事実、それはつまり朝鮮が日本の植民地であったという事実に目をつぶるのに役立つだけであるとしている。韓国社会が自らの歴史にある植民地政策=帝国主義に正面から向き合うことがこの問題への解決への糸口であると。
朴は、慰安婦問題とは日本による戦争犯罪という卑小なものではなく、近代社会に普遍的な帝国主義と資本主義に必然的な犠牲であり、そこではいつでも最も弱いもの、女性や子どもが対象となるとしている。それは正しい。
私はこの問題を考えるときに、いつも支援団体や韓国政府にではなく慰安婦個人へ謝罪するべきと考えていた。元慰安婦を国家間の取引の道具にしたり、政治的立場の議論の道具にするべきではない。まずは体と心に大きな傷を負った女性たちに謝罪と賠償をするべきである。
その一部がアジア女性基金と日本の首相からのお詫びという形で具体化されたことは正しく評価するべきであり、もっと認知されてもいい。しかし、同事業の成果に否定的な両国の世論により、賠償金を受け取った元慰安婦が半分にとどまったというのは、明白に政治と言論の責任である。具体的に言えば韓国における「挺対協」と、日本の左翼的言論人と党派人の責任である。
「しかし、運動が<帝国に抵抗した左派>の運動であり続けるとしたら、日本の右派を相手にしたこの運動は永遠に終わらないだろう。」(P305)
朴は、いつかは「この運動」が終了し、両国にとって好ましい決着を見る日が来ることを期待しているのだと思う。しかし、私はそうはならないと考える。なぜなら今日において運動は「続けることが目的」であるからである。運動することで地位も予算も得られる今日の政治運動は、活動家・運動家にとって決着するわけにはいかないのである。
本書は慰安婦問題に興味のある人にとっては必読の書である。今後は、あらゆる議論がこの本を出発点に展開することになるのではないかと予想している。それというのも本書は慰安婦問題に関するトピックを網羅しているからである。特に「韓国憲法裁判所の判決を読む」の章は白眉である。
2011年、韓国の憲法裁判所が出したこの判決を検証するにあたって、朴は1965年の日韓基本条約にさかのぼる(さらに1910年の日韓併合条約にも)。15年に渡るこの条約交渉において被徴用者への倍賞として慰安婦問題も議論されたという。そして、日本政府は被徴用者への個人賠償という提案をしている。しかし、これを拒絶したのは韓国政府だった。
「個人の請求分を、代わりに受け取ってしまって、日本に対してもはや個人請求できなくしたのは、残念ながら韓国政府だった。そして、それは時代的な限界だった」(P188)
「このとき韓国が個人の請求権を残さなかったのは、『経済建設のための犠牲というよりはむしろ北朝鮮の請求権問題を封殺するため』(チャン・バクチン2009、456P)だった。その理由は『統一後に日本が北朝鮮の日本人財産を要求するのを遮断するのと、統一以前に北朝鮮と日本が請求権交渉をするのを防ぐ』(同、455P)ことにあった」(P189)
以上は韓国側から発掘された貴重な情報である。
また、いわゆる「河野談話」をあらためて読みなおすべきとする「90年代日本の謝罪と保証を考える」の章も興味深い。実際にこれを読み返してみるとリベラルではあるが決して一方的な謝罪に落ちていない。「謝罪を示しながらも『強制連行』を認めているわけではない」(P235)、ぎりぎりの調整の末にまとめられた文言であると思う。
朴はこの談話とその後に実施されたアジア女性基金を、自民党が多数を占める内閣における社会党党首であった村山首相と自民党の一部勢力、そして官僚による調整の成果であったと一定の評価をする。しかし、その画期的な内容にかかわらず日本の左派勢力と多くのメディアも、韓国の世論も否定的であったことは上記した。
これだけ両国の世論を騒がせた問題であるにもかかわらず、こうした網羅的であり評論にふさわしい文献調査と冷静な分析のある書籍が初めて書かれた。しかも、発禁処分と告訴というリスクにさらされた韓国人によって書かれたことに日本の言論人はどう応えるのだろうか。