「死者たちの戦後誌 沖縄戦跡をめぐる人々の記憶」北村毅(御茶ノ水書房)
沖縄戦の熾烈さとか、そこに至る道のりについては多くの書籍が著されている。しかし、その死者、もっとはっきりと言うと遺体や遺骨が終戦後どうなったのか、どのように「利用」されてきたのか。そして誰が何を考えて「利用」してきたのかを詳細に調査した論文集。
ともすれば大きな歴史のうねりに隠れがちな史実に光を当てた立派な仕事である。
よく知られているように沖縄戦では膨大な人命が失われたが、その遺体はながく放置されるままだった。それは民間人が収容所に入れられ、地元に帰還するまでに長い時間を要したことが理由のひとつである。また帰還してからの生活がとてつもない苦労であったことは言うまでもない。
そうして農作業などの生活の営みに遺体や遺骨の収容作業がさらに重くのしかかっていたわけだが、沖縄の人々は可能な限りの丁重さでこれらを葬り供養した。
そのようにしてガマに葬られた遺骨が中央納骨所に集中して収容されるまでの紆余曲折が、第1章「さまよえる遺骨」で語られる。
本土遺族の「穴に放置されている」とした非難と、本土復帰を悲願とする沖縄側の意図とからみあって整備事業へとつきすすみ、ガマにフタをして見えなくしたという経緯は両岸の意識の点と復興事業推進の点からとても興味深い。
同じ構図が第2章「『復帰』へといたる『病』―ひめゆりの塔と『沖縄病患者』」にも見られる。
ひめゆりの塔は戦後、人気の観光地であった。バスガイドらを動員した本土キーパーソンや観光客への意識向上を通じて、復帰事業の予算化に結び付けたい両岸の思惑に利用された。
また、同時にこの戦闘の体験者が30年を経ても整理しきれない気持ちを持っていたことも指摘している。
第3章「『父』を亡くした後―遺児たちの戦跡巡礼と慰霊行進」では、当時の遺族会青年部(今日の主流成分)がいかに勢力をひろげていったのかが読み取れる。
今日、靖国神社問題によって遺族会が政界に影響力を持っていることがわかるが、どうして戦後このような影響力を持つことになったのかがいつも疑問だった。この章によってそれが少し理解できた。
摩文仁の丘周辺の平和祈念公園の整備をめぐる経緯を取り上げた第5章「風景の遺影―摩文仁の丘の戦後」では、各府県による慰霊碑の碑文を詳細に分析している。そこから「愛国」という言葉が「平和」という言葉にすり替えられていると看破している。
沖縄の死者がいかに復興事業に利用され、靖国的愛国精神の維持に利用され、いまでも利用されているのかを明らかにした重要な調査と論考である。