MOTアニュアル2014 フラグメント―未完のはじまり@東京都現代美術館
若手作家によるグループ展。数年前に小さなアートスペースで見たことのある作家がいて感慨深い。
髙田安規子・政子(双子姉妹らしい)は日用品を素材にした小品。
軽石を削って作ったローマのコロッセオがホーロー引きの洗面器に入っている。はかなくて息をするのも気になるくらいだった。
あと、地面や壁のコケを削って迷路を作った写真も。いずれは消えてなくなってしまうこちらの方がコンセプトに近いかもしれない。
宮永亮の映像作品は見ごたえがあった。
田んぼ、河川、ビル群、高速道路、日本のありふれた風景を破壊的に加工した映像とノイズにあふれた音響。ありふれた作りなのだが、アートとしてみると尺やカットの切り上げ方が絶妙で飽きない。10分位の作品なのだが3回見てしまった。
あちこちで見ている福田尚代は新しい作品はなかったようだ。
消しゴムを辺だけ残してくり抜くとか、原稿用紙を升だけ切り抜くとかの、モノを微細に加工するという根気のいる行為を延々とできるという能力。それが作品として成立するための美意識がある。
そして、その成果が作品として認められるということは本当に幸せなことだと思う。
ショップで福田の回文集も買った。回文であることと同時に優れた詩として成立している。思えばこれも美意識に基づいた根気のいる創作行為だと思う。
吉田夏奈はオペラシティでみた。そのときからモチーフは変わってないが表現手法は立体へと変わった。あざみ野ではすでに立体への取り組みがあった。
吉田の作品を見ると、本人が野山や島という場所に実際にいたことが伝わってくる。
思えば昔から野山に分け入る表現者はたくさんいた。ソローとか串田孫一とか。吉田はその係累かと空想するのも愉しい。
パラモデルの部屋が面白く無いのは何故なんだろうと考えてしまった。
化学系や物理系のラボがアートじゃないのに美しいと感じるときがある。それはすべてのアイテムが大きな目的に向けて整理されているからなのだろう。この部屋にはその方向性や目的がなかった。
常設に塩保朋子の大作があった。切り抜きから漏れる光と影が大きな展示室にかかって迫力だった。ちょうど子どもツアーの最中で、おとなしく聞いている姿が微笑ましい。
ピピロッティ・リストの昼寝テントがなくなって、代わりにアピチャッポン・ウィーラセタクンの「エメラルド」がかかっていた。たぶん歴史のあるホテルの部屋に舞う綿毛のようなものと家族の会話というもの。
かなり昔に現美の小さな部屋で見たことがあるが、あらためて見ると胸にしみる。場所の記憶は永遠に漂うということか。
シャジア・シカンダー「やむことのない煽動」は何度見てもいい。
小さな紙片にインクで描かれたものの組作品。いずれも音楽と死をテーマにしている。さわやかな色使いと形象に惹かれて見ているとじわじわと恐ろしくなってくる。
企画展の方が印象が強くて常設が楽しめなかった。近頃では同じ日にいくつも回るよりひとつのイベントを反芻しながらすごしたい。
篠原有司男のあたりにあった新宿のバーについての記事がとても興味深かったのだけどそんなことでスルーしてしまった。いま考えるともったいない。
あと、「バス観光ハプニング」とか「他人の顔」の展示も同じく。近いうちに常設だけまた行く。
ミュージアムめぐりは久しぶりなのだが、やはり美術館はかなり楽しめることを再確認した午後だった。