夢を追う子 (福音館古典童話シリーズ (6)) | W・H・ハドソン, 駒井 哲郎, 西田 実 | 本-通販 | Amazon.co.jp
福音館古典童話シリーズという30巻の中にある。他にはベルヌ、ウェブスター、ピノキオなど納得の作品が収められているが、この6巻目にこの本があるのは何故だろう。そう思って読んでみたのは、大人になってからではあるがかなり昔のことだった。
ずいぶんと不思議な物語でどう判断していいのか分からなかったが、心には残った。それでこの度再読してみたのだが、これは児童文学の傑作であると認識した。「一度読んで分からなかったのに忘れられない」という点で、それはすでに明らかだったのだが。
主人公は7歳のマーチン。英国人の両親が南米の高原に移住して生まれた子。永遠の迷い子。遊び相手もないまま鳥や虫を相手に毎日を過ごしていたのだが、蜃気楼に誘われてある日とつぜん遠くに向けて走りだす。
それからひとりで草原や砂漠や森や山や谷をさまよい、そして老人、土人、精霊、女神などに出会い、海へとたどり着くという放浪記である。
マーチンという7歳の少年の彷徨を支えるのは、ただひたすら遠くへ行きたいという欲求である。青年のそうした旅の物語はいくつもあるが、この物語は少年のそれであるだけにいっそう純粋でる。
マーチンはある日とつぜん走りだし、放浪を始めるのだが、そのとき父、母のことなどちっとも考えていない。また、苦痛を救ってくれた山の女神のことも、山の頂上から海を見るとすっかり忘れてひたすら海に向かって走りだす。
母や女神のことを思い出すのは心から困ったときだけ。「助けて」と叫ぶだけ。でも困難を脱するともう思い出しもしない。
なので、これは道徳的な物語ではない。キリスト教的な倫理観もない。ファンタジーではあるが南米風マジックリアリズムでもない。
20世紀の初頭にどうしてこんな物語が児童文学として発表されたのだろうと気になる。一方でそれだけ英国の文学の懐が広いとも言える。
この物語には「さまようことの美学」がある。旅立ちを誘う美しいものごとがあふれている。
例えば山の神のもとで安逸な毎日を過ごすことができるようになったマーチンが山の頂上で海霧に取り巻かれたときの表現。
上を広く見渡すと、マーチンの目には、何千、何万、何十万にわかれた霧の玉の一つ一つが、みんな人間の形をしているように見えました。白く光る顔と、金色に光る髪の毛をした大きな人間が、数えきれないくらいたくさんいます。
(中略)
まもなく、霧の中の人間がひとりマーチンにちかよって、岩のそばを通りすぎるときに、その貝がらを彼の耳にあてました。するとマーチンの耳に、小石をしきつめた長い海岸にあたってくだける波のような、低くて深い音が、つぶやくように聞こえてきました。誰が話したわけでもないのに、マーチンには、それが海の音だということがわかりました。
ハドソンは少年期を南米の大地で過ごしたアメリカ人。後年に自然を素材にしたエッセイや小説で人気作家になったという。鳥類学者としても有名。
日本語版の本書は版画作家の駒井哲郎が18章それぞれに挿絵を描いている。カバーも秀逸。