映画「逃げ遅れる人々」
千葉市で行われたドキュメンタリー映画「逃げ遅れる人々」の上映会と、その監督と障がい当事者とのトークイベントに行ってきた。
映画は311のときの障がい者の状況をインタビューしたもの。障がい者を支援するため、全国の当事者団体によっていち早く設置された「東北関東大震災障害者救援本部」の依頼で制作された。
障がい者と避難所については衝撃的な発言がいくつもあった。
子どもの発達障がいを心配する母親は子どもを連れて避難所に行けなかった、行く気にならなかったので破損した家に住み続けたという。
また、避難所にはベッドがなかったのでトイレのことを考え、2週間も車いすに座り続けた障がい者がいた。
避難所から出て行ってくれと言われた障がい者もいた。彼女は破損した自宅に戻ったが、食料配給などの情報がなく、あっても取りに行くことが出来なかったという。
すべての障がい者が「自宅がいちばんいい」と言っている。彼らの環境変化への耐性の低さがまざまざとわかる。
その自宅を失って全国に居場所を求めてさまよう障がい者もいた。
これは災害時に取り残される障がい者の声のアーカイブとして、価値のある映画だと思う。
一方で、障がい者ボランティアの被災地派遣という取り組みも興味深かった。原発規制に避難計画がないということの問題の大きさをあらためて認識した。原発規制委員会は避難計画策定にも責任を持ち、策定にあたっては障がい者の視点が必須だろう。
ところで、イベントの主催者である「アクセスデザイニング訪問介護事業所」の代表は筋ジストロフィーの青年である。
彼と監督のトークも、当時大学生だった彼の体験も興味深かったが、私の後ろに座っていた代表の父親の朴訥とした話も胸を打った。
進行性の病気を持った息子を持つ父の気持ちとはどんなものか。私には到底理解できるものではないが、長い月日の心情が少しだけ伝わってきた。
帰りがけに車いすの方とちょっと話したが、進行性の病気を持っていても団体の代表をつとめ、こうしたイベントをやっている姿を見て勇気づけられた。それだけでも今日は来た価値があったと言っていた。
障がい者の価値ってなんだろう、と問う人がいる。私は「ただいる」こと、「それが見える」ことが社会にとっての価値なのだと思う。この社会・世の中は、障がいを持っている人が、普通に暮らせる、普通に幸福を追求できるところなのだと証明するために。だからこそ国や国民は彼らを支援しなければならないのだと思う。
それが「福祉」という言葉の意味だったのだ。それが社会的包摂という意味なのだ、と実感した夜だった。