『死民と日常 <私の水俣病闘争>』 渡辺京二
水俣病闘争において運動側の中心人物のひとりである渡辺による評論集。本編の焦眉は「水俣から訴えられたこと」という講演採録。本人によるあの活動の総括という位置付けは1990年の講演である。
ドキュメンタリー映画「水俣ー患者さんとその世界」にある蛸とりのシーンが暗示するように、患者を死病にかかった可哀想な病人としてではなく、まずは水俣の日常を生きる民である。そういう幅で捉えるべき、というのが彼の心情的な水俣病闘争への関わり方であろう。
その点で見れば「義によって助太刀いたす」とか「血債は必ず返済されなければならない(中略)チッソ資本と会いたいで堂々ととりたてるべき貸し金である」とかの言も納得が行く。
しかし、この本が出たのが一昨年(2017年)。資料としてある「水俣病患者の最期の自主交渉を支持しチッソ水俣工場前に坐りこみを」のアジチラシが書かれたのが1969年。彼の言が長い年月の末、闘争の経験を思い出にし、すべて終わったことという空気を漂わせるのは無理もないことか。
しかし、水俣病は終わっていない。渡辺のようにある一時期かかわった者から終わったもの扱いされるのは、当事者としてはどんな気持ちがするのか私は気になる。
そういえば水俣病患者と天皇・皇后両陛下との出会いを描いた「ふたり 皇后美智子と石牟礼道子」には、好々爺とした今日の渡辺の姿が描かれているのを思い出した。
本書は、戦後最大の公害病ときわめて型破りであったその闘争の顛末をその闘争の中心人物が語るという貴重な記録である。また、闘争後の長い年月を経て、その当人が今日どのような感慨を得ているのかを知るという意味でも貴重な記録である。