『合理的な神秘主義―生きるための思想史』安冨歩

「合理的な神秘主義―生きるための思想史」安冨歩

そもそも人は「何が正しいことなのか」を知り得ぬものだとしたら、どうして我々は生きていけるのか。本書は思想家としての安冨がこうした問いの答えを求めて古今東西の知と思想を遍歴したものである。

孔子、仏陀からスピノザ、マルクス、フロイト、ウィーナー、ミルグラムと古今東西の思想家を取り上げているが、彼らはいずれも一貫して「正しく生きるための知識」を求めている者である。

さて、世界には不確実性が満ちている。そして多くの知性がそうした不確実性を排除しようとしていくつもの知的土台を構築しようとしている。それでもその決定的な理論や知識は未だなく、あるのは衝突や社会の崩壊であった。

しかし、安冨が問うのは、なぜ人はそうした不確実性に満ちた世界でも生きていけるのであろうか、ということである。そこからひとつの考え方が導き出される。

いわく本来の知的探求は不確実性をなくすためのものではない。人は生まれながらにして不確実性の上に生きていく能力を持っている。本来究明しなければならないのは、それを阻害するものは一体何なのか、ということである(それを彼は魂の脱植民地化と呼んでいる)。

ところで、本書には多くの思想家による知識が多く記載されている。特にサイバネティックスの提唱者であるベイトソンのヴェルサイユ論が興味深い。

今日の国際社会の課題につながる、国際関係と政治活動を致命的に倫理不全にさせたのは、1919年のパリ講和会議(ヴェルサイユ会議)だったという。ベイトソンはこの会議での米国の裏切り行為が後年ヒットラーの台頭を産み、ひいては原爆投下を正当化させたと指摘している。

本書では他にも各思想家の論考を多く牽いている。しかし、私が本書で最も印象に残ったのは古賀徹の寄せた序文であった。

倫理学の決定的な盲点とは何か。哲学・倫理学を専門とする私にはそれは見ることができないのかもしれない。だが自らの哲学的本能を研ぎすますとき、誰もが知っていて、あまりにも知っているがゆえにもはや口に出すことがタブーになっている論点があることは知っている。それは倫理学に従事する者がそれを読み述べ書くことで自己の生活を少しでも変えたのか、という一点に尽きる。

(中略)

原書に当たり、留学し、草稿を読み、「現地」の「最新の」議論に触れて、注をいっぱい付けて博覧強記を主張する。盲点となるのは、それをなすそのひと自身である。