「生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却」安冨歩
安冨をある分野の専門家とすることに意味はない。それで思想家と呼ぶことにしているのだが、本書はその思想家としての安冨の経済学への批判と経済学があるべき方向についての指針である。
彼の近・現代経済学への批判は徹底している。そもそも市場経済理論は「相対性理論の否定」「熱力学第二法則の否定」「因果律の否定」によって成り立っているのだという。
需要と供給の関係による価格決定が物理法則を無視することで成り立っている、という指摘は言われてみれば確かにそうだと思う。しかしもっと慄然とするのは、古今東西の経済学がそのことに目をつぶって(本当はわかっているのに)論を構築し、そのことで市場運営や国家運営に影響を及ぼしているということだ。
また、市場経済の基本的前提に「選択の自由」があるが、これも実行不可能であるとしている。これについては、人間の多くの選択はその都度行われているのではなく、あらかじめ決定されているというフィンガレットの論が提示される。
他にも、プロテスタント的世界観とそれに対置されるべき老荘の「道」の人生観、ポラニーの「創発」という認知論、手続的計算と創発的計算、フィードバックによる人間関係論など興味深い議論が本書には盛りだくさんである。
その中でも特に西欧主導で始まった「死への指向性を持った経済学=ネクロエコノミー」から「生への指向性のある経済学=ビオエコノミー」への転換を提唱するくだりが最も興味深い。
しかし、本書ではこの部分については方向性を提示するにとどまっている。展開を期待しているのだが安冨あるいはその同調者による展開の動きはいまのところ見当たらない。そのことが残念である。
組織論とマネジメントについて特に興味がある記述を挙げてみる。
マーケティングとは何かを売りつけるための手管ではない。それでは「販売」である。マーケティングとは、その組織が外部から何を求められているのかを察知し、それに組織の作動を適用させることである。この適応のために、自分自身を常に変えることが、イノベーションの本質である。もしマーケティングとイノベーションとが、完全にできるのであれば、販売は必要がなくなる。
これがドラッカーのマネジメント論の根幹であるが、こも方策のすべては、ハラスメントを抑制し、コミュニケーションを円滑にして、人々の創発性を発揮せしめることを目指している。
(中略)
そうしてはじめて仕事は円滑に行われ、全体主義への逃避を防ぐことが可能となるのである。(156ページ)
安冨の参加している「魂の脱植民地化」研究(「魂の脱植民地化とは何か(深尾葉子)」)でも感じたが、彼らは自分の体験で論ずることをよくする。この議論をしている者はどんな人間なのかが重要という考えは、これまでの学問にはなかった。これは現代の研究者、特に社会学、心理学、文化人類学における新しい兆しなのかもしれない。
これに関する記述を探してみたが、探した限り明確なものは見つからなかった。以下の引用で参考とする。
提唱者のポラニーが指摘したように、創発とは、分析不可能な暗黙の次元に属する過程である。
(中略)
なすべきことは、創発を分析することではなく、創発を信じた上で、具体的な創発の過程に「住み込み」、感じることで理解することである。そしてまた、創発を阻害するものについて分析し、それを取り除く道を探ることである。(109ページ)
ところで「日本人のための憲法原論(小室直樹)」にも近代経済学原理へのピューリタニズムの影響について述べている箇所があることはメモしておく。