映画「普通に死ぬ~いのちの自立~」
コロナ下での自主上映会の可能性を知る意味もあり東高円寺のセシオン杉並というホールに見に行った。
「みかんぐみ」という障害者支援のNPOが主催の自主上映会。400人くらいのホールだが、1列おき2席空けての着席で100人定員で実施だった。平日の午前だったがそれくらいは入っていたと思う。
映画は静岡の重度障害者家族が立ち上げたホームの利用者と家族を追ったドキュメンタリー。
この映画のテーマは障害者とその家族の死。ずっと介護を担ってきた母が亡くなり、障害者本人も亡くなっていく。映画は音楽やイメージに逃げずにまっすぐにその死へカメラを向ける。
ひとつのエピソードは兄と妹の障害児のうち妹が23歳で亡くなった後の母と父のその後の人生について。
もうひとつは、我が子のためもあって施設の設立に奔走する母がその実現前にガンで急死した家族について。残された20歳の娘のためにその姉と支援者は居場所を模索する。しかし、その娘も23歳で亡くなる。
また、3人兄弟の末っ子に障害がある母。しかし、本人もガンが広がり子どもに最後の別れを告げてやがて亡くなっていく。
他にも家族の死と生のエピソードが続く。
障害児のいる家族は介護の担い手が死んだらどうなるんだろう。障害児はその後どうやって生きていくんだろう。そうした疑問にこの映画はまっすぐに向き合っている。
この映画は、医療ケアや障害者介護の課題などに答えるものではないが、実際に今あることを伝えるというドキュメンタリーならではの意味と価値を備えている。障害者介護に興味のあるなしに関わらず誰もが見るべき映画であると思う。
自分は当事者でもその家族でもないのになぜ障害者問題に興味があるのかとあらためて問いかけてみると、それは彼らがこの社会の最前線にいるからだと思う。障害者が生きられない社会はもうダメなのだと思うからだ。
類人猿の遺跡から明らかに障害のある高齢の骨が見つかったことがある。それは彼らが障害のある仲間をケアしていた証拠である。人類の社会は制度的であれ非制度的であれ障害のある者をケアして来た。
それはそうすることが必要だったからなのだろう。それは知識の継続などの理由があったかもしれない。それは分からないが障害のあるものを大事にすることが集団の継続に必要だったのかもしれないと私は想像している。
そして、それについては人類学とか民俗学の研究にいくつかの成果がある。いずれにしても障害者を見捨てることをしてきた社会は歴史上特例に過ぎないと思う。
その特例にはナチスの障害者迫害とか旧ソ連の障害者状況などが思いつくが、現代の資本主義と合理主義の行き着く先にこの特例が世界を覆いつつあるという懸念がある。
だからこそこの世の中がまだ大丈夫なのかを確かめるためにも、彼らの日々を見つめていたい。そして、その日々が少しでも良いものになるように何かをしたいと思っている。