映画『私はあなたのニグロではない』
ジェームズ・ボールドウィンの未完のエッセイ「Remember This House」をベースに、本人のインタビュー映像、講演の映像、その他の映像資料による米国社会の白人および黒人をめぐるドキュメンタリー映画。2017年制作。ナレーションはサミュエル・L・ジャクソン。
言葉ではなく映像でもなく音楽でもない。フィクションでもなく、ノンフィクションでなければ伝わらないというこの事象を伝えるために作られた、これは完璧なドキュメンタリー作品。
だからこのブログで解釈することはしない。ただすべての人がこの映画を見るべき。そして、1回ではなく最低でも3回は見るべきと思うからだ。よってここでは感想を羅列することだけをすることにする。
ジェームズといえば1950年代から活動しているブラックの作家であると同時に公民権運動の活動家。この映画で彼は何人かの人物とその暗殺について語る。
1957年、ドロシー・カウンツ。15歳。白人たちにののしられながらノースカロライナ州シャーロットの中学校へ登校する。
1963年、メドガー・エヴァース。自宅にて狙撃され死亡。38歳。
1965年、マルコムX。講演中に銃撃。3人の男に15発の銃弾を受け死亡。39歳。
1968年、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア。白人男性にモーテルのバルコニーで銃撃され死亡。39歳。
記録映像にあるマルコムは、話す内容は過激ではあるがその語り方の知的なこと。冷静なこと。また、キング牧師の運動の方法である「非暴力」の徹底していること。自分の言葉への信頼の深いこと。
ジェームズは言う。「彼らは対立していたが、終わりにはどんどん一致していった。キングはいつかマルコムの意思を継ぐようになっていた。マルコムの重荷を自ら背負うようになった」
そう語る映像のジェームズの言葉遣いの的確なこと。白人の知識人やインタビューアーが、流れるように、でも考えもせずに英語を話すのと対象的に、彼はゆっくりと言葉を選びながら語る。それが印象的。
アメリカ映画については「白人は結局、黒人を理解しようとしなかった」「白人は黒人に嫌われていないと思いたがり、そう信じた。そして疑うこともしなくなった」と語る。「手錠のままの脱獄(1958年)」「夜の大捜査線(1967年)」
また、アメリカ音楽については「豊かな白人社会だけを描いたドリス・デイやゲーリー・クーパー的音楽と、レイ・チャールズ的な豊かな黒人音楽の層があり、それらは危険なくらい長い間交わらなかった」と語った。ワイングラスを選ぶドリス・デイと樹からぶら下がる黒人たちの映像。
このようにひとつの国に2つの人種(白人とそれ以外)があり、片方がその存在を必要としながら相手を人間として認めずにいることは国として不健全である。このままでは国が滅亡に向かうのは必至、と彼は主張する。「白人もニグロもこの国から生まれた兄弟(最も憎まれた末っ子がニグロではあるが)。私もアメリカ人でありこの国の将来を深く心配しているひとりである」と。
ジェームズはロバート・ケネディ司法長官と面談したことがある。ロレイン・ハンズベリーも同席した。ふたりはロバートの兄である大統領(J.F.K)に、ある黒人少女と一緒に歩いてくれるよう依頼した。それには黒人社会にとって大きな理由があったのだ。しかし、司法長官はその理由を最後まで理解しなかった。ロレインは黙って立ち去った。
ジェームズは人種問題は黒人の問題ではなく、白人の問題であるとする。白人が想像力を働かせることができ、歴史と現代に対する理解力を持ち、国の将来のためにどうすればいいのかを真剣に考えれば解決すると50年前から主張している。
さて、それから50年経って、現代のアメリカ社会はどうなったのか。すこしでも良くなったのか。どんな阿呆にでも分かるこの映画の主張のひとつはそれだと思う。