『富士日記』武田百合子
もう40年前になるが、私の父は風流な人で毎年8月になると猛暑の東京を逃れて精進湖で過ごすことにしていた。当然、その家族、母、私(小学生)、妹(小学生と幼稚園児)もそこで過ごすことになる。
釣りが好きで何度も訪れていた精進湖で知り合った地元の方から、空いてた古民家を毎年一ヶ月だけ借りたのだ。
精進湖はとにかく涼しいところで夜は布団をかけて寝ていたくらい。当時はテレビが映らず、数年後にアンテナを立ててようやくNHKだけが見られるようになった。
毎年、夏休みの一ヶ月は友達や知り合いとまったく離れて過ごすことになったが、私はそれが結構気に入っていた。そうした夏は高校生まで続いた。
さて、この本『富士日記』は武田泰淳の妻、百合子による富士桜高原の別荘での暮らしを記録したもの。昭和39年から51年までだから、その終盤で私の家族が精進湖に行くようになったのと重なる。
百合子と同じく私の母も自動車を運転した。母の運転で朝霧高原や甲府のワイナリーへ行ったものだ。その母も82歳。
この本を読んでたら懐かしくなって母に薦めたのだが、目が悪くなって活字を読む気がしなくなったとのこと。そこでかいつまんで読み上げてみることにした。そうしたらじっと聴いていて、ときおりコメントや昔話をさしはさんで楽しんでいる。これからもささやかな親孝行として何度かやろうかと思う。
『富士日記』は3度の食事に食べたもの、地元の店で買ったものとその金額、地元で知り合った人々との交流、当地での作家仲間との交流、編集者の訪問などを記している。それは日記ならではの簡潔かつ率直な書きぶりである。
それは別荘地を購入した年に始まり、夫泰淳の病死で終わる。はじめの頃はかなり頻繁に訪れ、あちらこちらと建物を修繕していたが、だんだんと足が遠のき、やがて死の気配が漂うようになる。
ある夫婦(と娘)の人生の輝きとその光が弱まっていくのがつぶさに読み取れる。これは日記文学の傑作だと思う。
それにしてもひと夏に何度も自動車で東京と富士山を往復し、夏以外にも毎週のように行っている時期もあった。中央高速のなかった時代には下道を使っていたのだ。つくずくパワフルな奥さんだと思うし、かっこいい女だったのだと思う。
いいだももによる下巻の後書きを引用する。彼女もまた戦後の飢えを経験した世代であることに身近なものを感じる。父も飲むとよく学童疎開のことや食糧難のことを繰り返し、繰り返し話したものだった。
戦乱と栄養失調の焼け跡を生きた「アプレ・ゲール(戦後世代)」には“アプレ”なりのイン・モラリティのモラルがありました。わたしの知っている鈴木百合子は、よるべなき姉弟として、中学生の修を連れていつも腹をすかせながら焼け跡の京浜をうろついているニヒルそのものの少女ー物喰らうニヒル美少女のイメージです。