『メイドの手帖』ステファニー・ランド
副題にある通り、「最低賃金でトイレを掃除し『書くこと』で自らを救ったシングルマザーの物語(エッセイ)」。
ルシアン・ベルリンの『掃除婦のための手引き書』 は20センチュリー・ウーマンの物語だったが、こちらは21世紀、ゼロ年代以降の米国人女性の過酷な人生が綴られている。
ステファニーは20代で予想外の妊娠、交際中の相手によるDVを経てシングルマザーとして自活を余儀なくされる。
両親はすでに離婚しそれぞれのパートナーがいる。苦境にいるステファニーは援助を求めるが母親はこれを拒否、父親は援助したくても貧困からそれができないという状況。
そういった家族や親戚の援助がないことからさまざまな公的援助を得て、なんとか若い母親と乳児の生活をつないでいくことになるが、当初は貧困者用のシェルターにいたこともあるという。
本書では米国の貧困へのさまざまな公的制度が詳しく記されているが、日本ではこうした場合どうなのかと比較してみるのは興味深い。
おそらく生活保護と自治体の住宅補助、健康保険の免除、保育園への優先枠などを組み合わせて行くのだろう。厚生省のひとり親家庭支援のパンフレットを見ると支援制度は多岐に渡っており、このうちから適切な組み合わせを選択するにはソーシャルワーカーの支援こそが必要だろう。
本書で興味深いのはこうした社会的弱者への支援(福祉と言い換えてもいい)に対する米国の一般の人々の意識である。
ステファニーがフードスタンプ(食品購入支援のためのカード)をレジで使っているのを見た人、あるいは公的支援を受けていることを知った知人は「気にしなくていいのよ」と言うことが多いという。つまり私達の税金からあなたたち貧困者を救済する予算を出している、という意識が言わせる言葉である。
それはそれを受けるステファニーにも深く根ざしており、彼女も政府からの支援を受けることへの後ろめたさを常に感じていることが本書には繰り返し書かれている。
日本人にも「お上の世話にはなりたくない」と生活保護を受けることを敬遠する意識はあるが、米国ほどこうした自助・自活が意識の根本に行き渡っているわけではない。
米国の「自分の生活や人生は自分でなんとかする」という意識の暗い面は限りなく息苦しい。本書でも結局は「本を書くこと」で自らを救ったというサクセスストーリーである。映画「幸せのちから」でも結局は成功しないとならなかった。
成功は一部の者が勝ち取るものであり、その影には成功しなかった者がいるのは必然である。スタート時点のハンディ(貧困、障害、出自、国籍)を是正する制度に目を向けることは多いが、結果として成功しなかった者、失意のうちに老いる者、障害とともに生きる者への視線が米国には極めて薄い。
彼らは限りなく透明で見えない存在なのだ。そのことを図らずも本書は表していると思う。障害者はスポーツや文化的に活躍しなければならないのだろうか。高齢者や障害者はそのままで価値があるという視点があまりにも米国には欠けているのではないか。
さて、ステファニーがこうした状況から選んだ職業は掃除婦だった。日本では馴染みのない職種だが米国では一般的だという。日々の掃除機かけや洗濯などは自分でやるのだが、2週間に一度ほどのバスルームやトイレの掃除は掃除請負会社に発注し掃除夫を派遣してもらう。
こうした慣習が家庭の主婦にどう感じられているのかも興味深い。当然クライアントと請負の関係なのでビジネスライクに行われる場合が多い。掃除婦は「透明」な存在として扱われることでプライドを著しく傷つけられながら従事することになる。
しかし、一方では家庭に他人を受け入れ、家事という仕事の一部を担わせることに主婦の心中には複雑なものがある。そこには階級意識やジェンダー(あくまでも自分の)意識も見え隠れしている。
これについて渡辺由佳里による本書の解説から引用する。
「私は私の掃除婦が大好き」とツイートしたイギリス人女性もいる。だが、あるアメリカ人女性はその女性に対して「親愛なるイギリス人のレディへ。私はヨチヨチ歩きの子どもを持つシングルマザーだったときにあなたの家を掃除した者です。私はあなたたち全員が大嫌いです。あなたのトイレに肘まで手を突っ込んで掃除することを私がどれほど『誇りに思っていた』かなんて、あなたがインターネットで言っていたら、私は喜んであなたの窓にレンガを投げ込んだでしょう」と怒りを顕にした。ステファニーは、それに「同感」とコメントしてリツイートしただけだったが、彼女がこのツイッター論争に対してどう感じているのかは明らかだった。(P406)
日本ではこうした境遇でどういった職種につくのだろうか。思いつくのが介護職。訪問介護などは各家庭で家事援助をするという意味でもこれに近い。確かにそれは低賃金であり、老い、排泄、認知症など人の辛い部分に向き合う仕事である。それでも世間からはエッセンシャルワーカーとして一定の評価がされ「透明な」存在とはみなされていない。
ある職種について、それを使う側も従事する側も「転落」意識を持つのは階級社会の表出ではないだろうか。私も米国で生活したことがあり、日本から家族で赴任した主婦の方の話を思い出すとみな一様にメイドが苦手だと言っていたのを思い出した。
日本人は、そうした見え隠れする階級社会意識という緊張感の中でメイドを受け入れて過ごすよりも、自分で掃除洗濯した方がいいということなのだろう。
掃除婦としての日々の苦闘についてバーバラ・エーレンライクの序文から引用する。
ステファニーのような暮らしを強いられなかったあなたは幸運だ。『メイドの手帳』を読めば、それが「足りないこと」に支配される厳しい暮らしだとわかるだろう。十分なお金もなければ、ときには食べものもなかった。ピーナッツバターとラーメンの生活だ。マクドナルドはめったにないご馳走だった。(P8)
ステファニーの物語は、破滅的な崩壊へと弧を描いているかのように見える。まず、一日に六時間から八時間も続く、荷物の移動、掃除機を使っての掃除、床磨きという身体的な消耗がある。私が働いていたハウスクリーニング会社では、同僚のほぼ全員が神経痛を患っているようだった。若い人では十九歳だったというのに―背中の痛み、腱板損傷、膝と肘の痛みに苦しんでいた。ステファニーは、一日の摂取量を大幅に上回るイブプロフェンを飲んで痛みをごまかしていた。顧客のバスルームにオピオイドが保管されているのを見て、手が出かけたときもあった。処方薬、マッサージ、理学療法、あるいは疼痛処理のスペシャリストに診てもらうことは、彼女の選択肢にはなかったからだ。
このような生活が原因の身体的疲労に加え、ステファニーは精神的な困難にも直面することになる。(P9)
ところで、ステファニーの方法で特筆すべきはSNSの活用だ。
彼女は貧困状態にあるシングルマザーとしての日々をブログに書き、facebookで掃除婦の顧客を見つけ、引っ越しの寄付を募り、クレイグズリストで不要なチケットを売った。それはとても現代的であったと思う。
また、掃除婦として訪問する家の状態からその家の家族を想像する想像力や表現力は非凡であることは間違いない。彼女は自分のその非凡な能力を早くから意識し、つらい毎日の生活のうちに学ぶ時間を見つけなければならなかった。そのための苦闘は素直に感動的である。