「万物理論」グレッグ・イーガン
2055年の近未来。宇宙のすべてを説明するという万物理論が3つの候補に絞り込まれた。
科学ジャーナリストのアンドルーは、そのうちひとつの理論の提唱者であるヴァイオレットを取材するため太平洋上に浮かぶ独立国家「ステートレス」に乗り込むが、そこである科学カルトの暗闘に巻き込まれるというストーリー。
しかし、物語はそれだけにとどまらず、彼は「ステートレス」消滅を目論むバイオ産業の襲撃、全国に蔓延する「ディストレス」という疫病、そして万物理論の完成による宇宙消滅の危機にも関わることになる。
「万物理論」というタイトルだから、物理学では一般的な認識である力の場の理論の統合について議論がされるのかと思っていた。しかし、この小説では「すべての自然法則を包み込む単一の理論」という別物の議論だった。原題が「Distress」なのでどうしてこのタイトルにしたのか理解に苦しむ。
しかも、ここで交わされる議論が独特のジャーゴンによる意味不明のもので、「すべての自然法則を包み込む」とは何なのかを真面目に解き明かす意思が感じられない。
小説なので、それらしい議論であっても面白いストーリーがすすめばいいのだが、クライマックスのSF的アクロバットは、そのジャーゴン的議論を読者が100%信じるか、あるいは読み飛ばすかしなければ納得できないという滑稽なものになっている。
(以下ネタバレあり)
つまり、この小説のクライマックスは「人間宇宙論者(AC)」という科学カルトの盲信する理論が現実のものになるという、いわば「科学カルトの夢想」である。
私は「AC」のいう「基石」や「ディストレス」の原因についてしっかりとした(SF的)理論展開が読みたかった。また、なぜ、この宇宙にたまたま存在する人類の一部の考察が宇宙を消滅させるのかという理由が読みたかった。それは前作「宇宙消失」ではある程度満たされたものだったのだが本書ではがっかりした。
ところで、本書のモチーフである大脳生理学および肉体とテクノロジーの融合については前作と世界観を共有している。しかし、深まってはいない。このような性質を持った人間、および社会がどのようなメンタルや文化を持つのかの考察が浅薄であるように感じた。
今日、障害者のフィジカル・メンタルについての研究が多く行われている。そこにはSF的な仕掛けがなくても刺激的で興味深い議論が数多くある。例えば手話についてのコミュニケーション論とメンタリティについては「手話を生きるー少数派言語が多数派日本語と出会う(斎藤道雄)」など。
また、本書にある大脳生理学的・肉体改造的な性別自由化社会についても、今日のジェンダーを巡る議論により興味深いものが多いと感じる。例えば今日のSF的なフィクションで言えば「パワー(ナオミ・オルダーマン)」とか。
本書はSFなので時代が追いつくのは仕方がないとの見方もあるが、私はむしろこの問題(ジェンダー)についての作家の深化不足だと思う。小説は技術的には陳腐化しても普遍性を帯びたものは古くならない。SFを含むすべての小説はそうあるべきであろう。
それが原因なのか結果なのか、この小説は登場人物に魅力が乏しい。自己中心的で共感を感じさせない人物しか出てこないし、多くが一貫性のない行動をする。
それが体に埋め込まれたマイクロチップの影響という意図であるとするのなら、それを主要テーマとした小説をまず書くべきと思う。私は「汎性」を主人公とした社会のあり方や個人の精神や文化について日常を描く小説が読みたくなった。
あと、本書の舞台である「ステートレス」という浮遊国家について、また、その国民性についての記述にオーストラリア人のアジアについての見方が透けて興味深かった。
オーストラリアには西欧や東アジアの文化から隔絶された国家であることの不安さがあるのではないだろうか。国や制度を信じない国民がたくましくも最終的に勝利するという理想にそれを感じた。