『白魔―アーサー・マッケン作品集成〈1〉』アーサー・マッケン
有名な「パンの大神」を読んでないと思いだして読んでみた。高橋洋の映画「恐怖」はこの小説にインスパイアされたとのことで、確かにモチーフをなぞっている。
脳のある機能を刺激すると本来見えるはずのない物事が見えるようになり、それでその処置をされた女が正気を失っていき、やがて何か邪悪なものを産み落とすという。
それはそれで面白かったのだが、この19世紀末の小説で楽しむべきはホラー風味よりもビクトリア朝後期の雰囲気だと思った。
それは篤い宗教観と科学の進歩が渾然となった時代だが、一方で人権やジェンダーにははるかに意識が低い。その時代の、相続と遺産が生活の糧の高等遊民が日常の怪異に取り組んでいくというストーリーが多い。
これを読むと、この頃の先進国(英国)の一般人の感覚が現代とはかけ離れていることが分かり興味深い。
そもそも当時と今では小説というもののあり方が違う。それはネットはもちろん、テレビもラジオもない時代。小説は時間つぶしのための主要な娯楽なのだ。
それでこれらの小説はほぼひとり語りないしは会話文で延々とつなげる構成で、それは当時としては小説のあるべき形だったのだろう。
なのでホラーファンからは評判の低い「生活の欠片」はホラー、怪異、恐怖小説として読むべきものではなく、当時の人々が他人の人生を垣間見て時間つぶしをするためのものとして優れている。
当時の先進国市民とは「小説」を経験した初めての世代だったのだろう。現代では当たり前に映画やテレビを通じてドラマがあるため意識することすら難しいが、「小説(ドラマ)」というものが人類の意識にとっていかに革命的な意味を持つことかあらためて認識するべきではないかと思った。
当時の人間は小説を読むことで、自己意識を離れ、あるときは他人の人生に同一化し、あるときは他人の人生を大所から俯瞰する感覚を得たのだ。それはそれまで日常しか知らなかった人間にとってなんという自由の感覚であったことか。
そんなことを考えたので古典的作品を評価するとき、当時の人間はどんな意識で生きており、この作品を手にとったときどう感じたのかという視点が常に必要だとも思った。