『武器としての「資本論」』白井聡

武器としての「資本論」 白井 聡

マルクスの資本論の体系的解説書ではなく、同書を素材とした新自由主義打倒への指南書。

「20世紀中庸にあったフォーディズムなどは決して労働者保護政策ではなく、あくまでも国内に消費者育成が必要であったという資本家側の都合によるものである」など興味深い指摘がある。

また、「資本主義的成長終焉の本来の原因は国内に安価な労働力が枯渇したからに過ぎない。低賃金の労働者を求めて海外に移転しても、いずれそれが枯渇するという構造は変わらない。よってそれは単なる時間伸ばしに過ぎない」という指摘は、資本論の21世紀的読み直しによる優れた考察である。

かつて日本を侵略戦争に駆り立てた農村における過剰人口を吸い上げ、使い尽くした時点で莫大な剰余価値を生んでいた労働力のプールがなくなってしまった。これこそが高度成長が終焉した本質的な理由ではなかったか。

アジアでは日本に続いて韓国や台湾が高度成長の波に乗り、その後に中国が大発展し、東南アジアで高い経済成長が実現されていますが、それらの国が成長できた理由もまた、日本の高度成長とまったく同じであり、それらの国の高度成長もまた、日本と同じ理由でやがて終焉を迎えるでしょう。

このように現実の経済を観察していくと、「イノベーションによって生まれる剰余価値は、たかが知れているのだ」とわかってきます。資本主義の発展の肝は結局、 安い労働力にしかなのです。身も蓋もない話ですが、日本の経済発展が頭打ちになっている時代だからそう見えるのではなく、海外も含めて経済発展の歴史を振り返ることで、「結局、すべての国がそうだったのだ」という真実が見えてきます。

高度成長期の金の卵たちは、上京するまで田舎で貧しい暮らしをしていました。 そういう貧 しい若者たちがいたからこそ、 高度成長が可能になったのです。その若者たちは、地元で自足 して、幸せに暮らすことができなかったからこそ、都会へ出て就職しようとしたのです。 それは資本の側から見れば、地方の農村共同体に密着して生きていた人たちを、その共同体から引きはがし、安い労働力として生産現場に連れてくることでした。(p212)

しかし、新自由主義への対抗手段として「階級闘争」を挙げるのは今日の社会で受け入れられるのだろうか。私は極めて否定的である。

今日の社会はマルクスの時代から根本的に変化していないとする本書の指摘には同意する。しかし、それ以降の歴史において社会制度には多くの試行錯誤があった。そして、それによる洗練もあったと思う。本書に限らず、今日、新自由主義への批判も多く聞かれるようになった。なので私はより洗練された社会制度改革に希望を見ている。

米国では民族的(白人至上主義的)分断政策を全面に押し出した政権が否定され、社会民主的政策が政権に近づきつつある(バーニー・サンダースしかり、バイデン大統領のインフラ投資プランしかり)。

日本でも野党第一党は新自由主義的自己責任論から支え合い社会への転換を訴えるようになった。そんな時代でもあり、より今日的な社会改革論が今日の社会では馴染むのではないかと思う。

それにしても本書で引用されている資本論(向坂逸郎編訳、岩波文庫版)の読みにくいこと。元から難解なこともあるだろうが翻訳の問題もあると思う。私は読んだことがないが、これまで日本で多くの学者や学生がこの理解しにくいテキストに取り組んできたことに暗澹たる思いがする。

白井が言うように資本主義を理解する基本中の基本のテキストであるならば、もっとこなれた翻訳書がいくつも出てもいいと思うのだが。