『日本の包茎 ――男の体の200年史』澁谷知美


『日本の包茎 ――男の体の200年史』澁谷知美

歴史社会学者・ジェンダー論研究者による日本男性の包茎に関する感覚についての論文。

医学的には決して異常ではなく、病気でもなく治療も必要としない仮性包茎。これは実際にも多数派である。それを「恥」とする感覚は日本男性特有のものであり中国にも西欧にもない。にも関わらず多くの男性がこれを隠し、方法があれば治療したいと考えているのはなぜなのか。

澁谷によると包茎についての資料は江戸時代中期にもみつかるという。しかし、多くは治療について言及しているのであって「恥」の感覚とは結びついていない。むしろ、快感を増すものとして肯定的に表現しているものもある。

包茎が「恥」の感覚と結びついたのは明治以降、「徴兵検査」での体験として語られることが多くなってからである。それを考えると「富国強兵」と「男尊女卑」と並行してそれが成立され補強されていったものと考えられる。

この日本男性における「恥の感覚」の歴史的成立については本書では触れておらず、別の研究を待ちたい。

さて、その感覚が社会に悪影響を及ぼすのは現代以降、包茎治療がビジネスとしてメディアと結びついて以降のことである。本書の主眼は、90年代以降のこの「恥の感覚」をビジネスとして悪用した医師たちとメディアの行為、その掘り起こしにある。

90年代の男性誌・若者誌(平凡パンチ、プレーボーイ、ポパイ、ホットドッグプレスなど)に包茎治療を手がける形成外科医院が、記事を装ったタイアップを仕掛けた。それは膨大な量と金額であった。その手法は包茎であることを密かに悩んでいる若者層の不安をあおり、手術をすすめるというのものだった。

それは、そもそも隠微な問題であり他人と相談することができない若者を、専門知識がある大人とメディア戦略に長けた大人が搾取するという行為だった。これに関わった医療関係者もメディア関係者も責任を追求されるべきであろう。

そして、そのタイアップ記事には女性の声が多く掲載されていた。いわく包茎男性は「臭い」「持続性がない」「彼氏にしたくない」などと女性に語らせているのである。

しかし、現実の女性が男性の包茎に対し、こうした感覚を持っていたことはまったくないという。それは男性の編集者が捏造した女性の声であった。

澁谷はこれを「男性の医師が、男性の編集者を使って、男性の若者を搾取するための」構図であるとする。そして「女性の声」はその構図を補強するためのツールとして利用されたのである。

一方で、その搾取された側の男性の怒りの方向は女性にむけられると言う。こうした澁谷のジェンダー論からのこの問題への視点は秀逸である。

本書の目的のひとつに、男性間の支配関係がジェンダー不平等にどのように関わるのか、その一般理論を抽出する、というものがあった。これについて答えを先に述べると、「<フィクションとしての女性の目を用いた男性間支配が、女性にたいする男性の敵愾心を涵養し、女性への攻撃を正当化することで、ジェンダー不平等に関与する」というものになる。

分析で明らかになったのは、男が男を動かすさいには「女」の存在が欠かせないことだった。大部分が男によって占められる包茎クリニックの医師や雑誌の編集者たちは、潜在的な患者を手へと向かわせるために、「包茎ってキライ、フケツ」といった「女の意見」を記事に載した。

この「女の意見」で想起されるのは、ハゲ男性へのインタビュー調査をおこなった社会学者・須長史生のいう<フィクションとしての女性の目>である。これは、まったくのウソとか作り話ものが問われないまま男性たちに信じられている点でフィクションといいうる、女性の意見にまつわる男性からの信念のことである。具体的には「ハゲると女性にもてない」が挙げられる。この信念は本や雑誌に登場するし、当事者にも信じられている。だが、実際「ハゲは嫌い」と女性にいわれたことがある者は調査対象者のなかで皆無だった (本書P216)

「ハゲると女性にもてない』のフィクション性は、「女は包茎が嫌い」という男性たちの信念にも共通するものである。「女は不潔なペニスが嫌い」。これはおそらく本当だろう。その点においでは、まったくのウソとか作り話ではない。ただ、それが一足飛びに「女は包茎が嫌い』につながるかというと、その根拠は問われない。第3章で見たように、多くの女はそもそも男性が包茎かどうかを気にしない。包茎を嫌う女もいるだろうが、だからといってすべての女がそうであることにはならない。「女は包茎が嫌い」という男たちの信念は、根拠を問われないまま流する<フィクションとしての女性の目>である。 (本書P217)

この解説は「「包茎ってキライ、フケッ」と吐き捨てる女性像」にも応用できる。これがよくいる女のあり方として認識されれば、男を手術へと向かわせているのは女であるというリアリテが強固なものになる。そして、包茎男性が迫害を受ける風潮に女も加担している、ということになる。

このことは、男たちの女への敵愾心を養うだろう。「包茎ってキライ、フケツ」と好き勝手なことをいい、手術を男に強いる女ども。包茎言説によって培養されたこの女性像は、「男が生きづらい世の中を作っているのは女である」という、すでに流通している女性憎悪ぶくみの認識をより強固なものにする。この種の認識は、「男を苦しめているのは女なのだから、男には女に復讐する権利がある」というロジックで、しばしば女への攻撃の正当化に用いられる。

これら女への敵愾心、憎悪、復讐心、攻撃への権利意識は、女性へのさまざまな暴力や攻撃として表出するかもしれない。性暴力の動機は「性欲を満たすため」であると思われているが、それだけでなく、女性にたいする敵意、憎悪、攻撃欲、権利意識なども、その動機となっている。そして、それは日々起きている。ネットなどで発言する女性やフェミニストへの攻撃も日常的に生じている。それはネット空間を飛び出して、電凸や怪文書の郵送のかたちを取ることもある。 (本書P219)

かくいう私もその仮性包茎の男性である。当時を振り返ってみると多くのメディアが手術を勧めていたことを記憶している。しかし、一方では「女性って本当にそう思っているのか?」と懐疑的であった。

そうしたタイアップ記事のことも眉唾で見ていたもので、当時の若者もそうしたリテラシーはあった。ウソっぽい記事は何となく分かるものだ。しかし、そのうちの何パーセントかが実際に医院の戸を叩くものだとの実感もある。

さて、現代の日本人男性がその恥の意識を完全に乗り越えたとは考えられない。男性中心意識が社会に温存されている以上、相変わらず「恥の感覚」の利用によるメディア操作に陥るものはいるのだろう。

澁谷は処方箋として「包茎をバカにしない性教育」が必要としている。また、社会全体に「新たな男性身体イメージの構築」が必要とも主張する。現場でどのような方法が適当なのか、今後の議論が待たれる。

本書は、そうした議論のために重要な調査・研究成果となろう。