『認知症の私から見える社会』丹野智文

『認知症の私から見える社会』丹野智文

筆者は29歳で若年性アルツハイマー型認知症と診断された当事者。現在も自動車販売会社で事務職のポジションで勤務している。

本書で繰り返し伝えようとしているのは、認知症当事者に決めさせろということ。

いわく、認知症と診断されたとたんに財布も自動車も取り上げられ家族が保護する対象になってしまう。しかし、当事者は昨日までと違う人間ではなく自分の人生を自分で決めていきたいと思っているのだ。

以下、かなり長いが大変貴重な見識だと思うので引用する。

認知症カフェという場所があります。認知症カフェは、ヨーロッパで始まったスタイルを取り入れて、認知症の人と家族を支援することを目的に、2012年から国の認知症施策の一つとして普及が始まった場所です。

認知症の人や家族、地域の人たちが気軽に集い、悩みを共有し合いながら、専門職に相談もできる場所になっています。認知症カフェはカフェという自由な雰囲気の中で、支える人と支えられる人という隔たりをなくして、地域の人たちが自然と集まれる場所だと言われています。

しかし実際には、必ずしもそうした場所にはなっていません。

(中略)

このような、家族の相談が主体の認知症カフェに、当事者が一緒に参加しても、そこは家族がつらさを分かち合う場であり、家族中心で話が進められるから、当事者の居場所はありません。

なぜ、このようなことを例にしたかというと、認知症カフェの話をしても「当事者が来ない」と言っている主催者が多いからです。

「認知症カフェに当事者が行かない理由」、それはカフェに行っても面白くないからです。(本書40ページ)

家族は、隣に当事者がいるのに「この人がいると目が離せないので私の時間が全然なくなりました」など、自分の気持ちだけを吐き出すことがあります。

そのような時、当事者は嫌な気持ちにしかなりません。また、当事者が話をする前に「何年前に認知症と診断され、現在は何歳です」など自己紹介まで家族がしてしまい、当が話をすると「それ違うでしょ」と否定されることがあります。

そんな「場」へ当事者が行きたいと思うはずがありません。

(中略)

家族は「悪いことは言っていない、本当のことを言っているのだから」と思っているはずです。でも当事者のことを思って話をしていることが、当事者を傷つけている場合もあります。そして、家族でもそのことに思いがいたらない人が多いのです。

(中略)

また、支援者自身も自分自身のことも話して欲しいのです。
病気や家族関係に関する一方的な質問、例えば「いつ診断されたの?」とか「何か困っていることはありますか?」等の質問をずっとされると「尋問」のように感じてしまい、話をしたくなくなります。

当事者も「尋問」ではなく「会話」をしたいのです。(本書40ページ)

確かに当事者によかれと思って家族はあれこれと世話したり、禁止したりするが、実際にはプライドもある普通の大人であり、家族の一員であることを忘れてはならないと思う。

認知症についての家族や医師の意見だけでなく、当事者の声が伝わるメディアが世に出るようになったことに社会の変化を感じる。