『リハビリの夜』熊谷晋一郎

『リハビリの夜』熊谷晋一郎

脳性まひ当事者による、全身障害であることの身体的、心理的あり様、それからリハビリ、自立生活について論じた書。

脳性まひ者(障害者)である事と「敗北の官能」を関連付けたこと、障害者の性的感覚を赤裸々に語るところが従来の医療者、支援者視点の書にはなかった。これは画期的な障害者論である。

一方そういった「障害者であることの官能」を寄り添わせながら、本書は「まなざし/まなざされる関係」という障害者が支援の現場で置かれる状況を詳細に論じていく。

筆者はやがて、健常者による規範的な動きを目標にしたリハビリは問題があると結論づけ、大学進学を機に自立生活を開始することになる。

そして、自立生活、研修医としての生活を経て「身体内協応構造/新体外協応構造」という概念を得る。それは排泄の失敗という経験と、施設の改善による世界との馴れ合い、あるいは研修医として医療の現場における同僚との共同作業の体験によって得たものである。

つまり、これは当事者が人生を通じて障害者としての身体と心理を分析し論理化したという、障害者研究としては類を見ないものではないだろうか。

さて、本書の終盤では自立生活を送る障害者が二次障害を意識する例、そして衰えについて触れている。これもまた現在を生きる当事者の心理として貴重な報告である。

特に自立生活を送る重度障害者の二次障害について、自らの反省をも表明する以下の部分が私には最も興味深かった。

降りた当事者たちは、生きる困難の原因を、自身の身体病理ではなく、社会の中に見出し、自立生活運動を展開してきた。その理念に、私は深くコミットしているし、本書もそのような考え方に貫かれている。

「問題は多数派の身体を前提にしている社会の側にあるのに、自己身体を問題化してたまるか」という発想が、私たちの中には確固としてあるのだ。そして、リハビリでの挫折を通してはぐくまれた医療的なまなざしに対する根深い不信感もあいまって、「二次障害への対応」という名目での医療的な介入をほとんど反射的に退けてしまうのである。

このように「降りた当事者」たちも、まなざしを自己身体ではなく社会の側に向けようと意識するまり、自らの身体を省みることを無意識に忌避してしまう可能性がある。そういった自己身体への無関心によって知らず知らずのうちに、身体の声を拾い損ねて、結果的に酷使してしまうという状況に陥るのだ。

こうした二つのパターンによって、脳性まひの身体は、専門家だけではなく当事者からも省みられることなく、酷使されることになる。自己身体への承認から出発した当事者運動が、いつのまにか自己身体の抑圧へと向かい、そもそも運動の羅針盤だった身体の悲鳴がかき消されていくという矛盾。支配者が専門家から当事者に入れ替わっただけで、相変わらず脳性まひの身体は、暴力を振るわれ続けることになるかもしれないという疑念。(本書224ページ)