『病んだ家族、散乱した室内―援助者にとっての不全感と困惑について』春日武彦
タイトルから想像されるような家族ホラーや凄惨なドキュメンタリーではない。地域で活動する精神科医のノウハウが詰まった、きわめて実際的な本である。
認知症、うつ病をはじめとしてゴミ屋敷の住人、異常行動で近所から保健所へ通報されるような人へどのように対応したらいいのか、経験に基づいた知識、また支援者としての限度・限界への知見が詰まっている。そこには理想論やあいまいな言葉でのごまかしがない。また、筆者はそのような支援者に対し痛烈な批判をしている。
さて、筆者が本書で何度も指摘するのは、当事者よりも彼らに最も近い援助者であるべき家族のことである。つまり、家族の状況改善は最も有効な当事者への治療であるが、それと同時に当事者の状況の原因でもあるということだ。
医者が当事者を訪れると、その家族の精神異常が疑われる場合が少なくないという。
いわく、母の介護を人生の目的にしている息子。母の徘徊に困り果てて拘束して仕事に出かけて何とも思わない息子。何年も引きこもっている娘に困っていることはと尋ねると「フェルトペンと画用紙代がかさむのが悩み」という両親など。
筆者は当事者を入院させるなどして家族と引き離すこと、また、家族にヘルパーや保健師など外部の空気を入れることが劇的な効果をあげることを指摘している。
また、ノウハウのひとつとしてウソをついて当事者と会話することの効果も指摘している。いわく、ゴミ収集癖のある人に路上で話しかけるとき医者と言わない、玄関で区役所の職員を装って入れてもらうなどである。
精神病患者というものは本人にその自覚がなく、医者に会いに行くまでが大きなハードルである。ところがその周辺(近所の住民やケア担当職員)からは早急な診断を求められる。よってこれは面談を実現させるための仕方のないノウハウであろう。
ところが、こうした実際的なノウハウとインフォームドコンセントが重視される今日の世情はおそらく対立するのだろう。うがってみれば本書が今日では絶版となって入手困難となっている理由はそこにあるのではないかと推測される。
本書には地域で活動する精神科医としての腹をくくった覚悟が散見される。同時に、支援者として最重視するべきことは知識とか経験を仲間同士で共有し、意識を揃えて当事者に向かうことだとも指摘している。私には経験も知識もない分野ではあるが納得の行く意見である。
本書は地域で精神病が疑われる人々へのケアに従事する人々には極めて有用なものであろう。
「こわいもの知らず」とプロは違う
こわい思いをすることについて、それを差別だとか共感が不足しているなどと非難することは誰にもできない。場数を踏まなければ、そつなく立ち回ることはできない。合点のいかないシチュエーションにおいてこわいと思うことは、ある意味で世間一般の感覚そのものであり、それを失ってしまっては相手に適切なアドバイスもできまい。無鉄砲であったりこわいもの知らずであることとプロであることは別問題である。
患者を前にしてこわいと感じたとしても、それを恥じたり道徳的に問題ありなどと自責的になる必要はない。むしろ職場で「なぜこわいと感じたのか」を討議の材料にすべきであり、案外ベテランでも似たようなことについて迷っていたり揺れていたりするものである。担当医に疑問をぶつけてみるのもよい(ちゃんと答えてくれない不親切な医者もけっこういるが)。
もっと誠実に振る舞えとか、ミもフタもないことを言うような人間がいたとしたら(ケース検討会で、具体的アドバイスを求められた際に「もっとフトコロに飛び込みなさい」と無意味な助言をして保健婦を煙に巻いていた医者を知っているが、わたしはこういった抽象的かつ空疎な発言は犯罪に近いと思っている)、それは現場での経験がないくせに知ったかぶりをしている「尊大な臆病者」と思って間違いない。率直な気持ちを押し殺してしまっては、納得のいく援助活動など不可能となってしまうだろう。(本書143ページ)
事態はまことに厄介である。そう簡単に解決がつくものではない。悔しいけれども、どうにも手の出しようがない場合はいくらでもあるだろう。わたしなりの最良のアドバイスとは「自分だけで問題を抱え込むな」「自分だけで悩むな」ということであり、すぐに解決がつくとは限らなくともせめてチャンス到来に際してそれを生かしきれる体制を整えておくことであろう。そして援助者に求められる能力のひとつは「億劫がらずに、必要な人たちに連絡をつける才覚」ではないかと思うのである。(本書163ページ)