『人新世の「資本論」』斎藤幸平

『人新世の「資本論」』斎藤幸平

本書はマルクス研究者による地球環境問題への処方箋であり、かつマルクスが残したノート研究による「共産党宣言」「資本論」を超えたマルクス思想の新解釈の書である。


私は斎藤が本書で説くように、地球環境問題を解決するには資本主義からの決別以外にはないということには同意する。しかし、一方で資本主義からの決別、そしてコミュニズムへの移行が現代の人類に可能なのだろうかとも思う。

そもそも人類は自らこの「欲望を解放することを許す制度」である資本主義を選んだのだ。共産主義を含むその他の制度は資本主義に飲み込まれ滅んだのだ。

であるからには、新たな社会制度を考える者はこの「欲望」という人間の根本的性質をどう捉えるのか、という文学的テーマに取り組むことが必要だと私は考える。

また、中世の西欧におけるプロテスタンティズムの勃興が資本主義を産んだ。さらには人権と民主主義を産んだという視座も必要ではないか。コミュニズムは西欧の勤勉さと人権をどう評価するのだろうか。(「日本人のための憲法原論」小室直樹

もっと言えば、私は人間には「平等」や「共有」に耐えられないのではないか、つまり斎藤の説く「脱成長」に耐えられるのだろうかとの疑問が本書を読んでいて離れなかった。

以下、各章ごとに自分の興味のある項目を概要する。


第1章は「SGDsは人民のアヘンである」という強烈なフレーズで昨今の気候変動論への批判を展開から展開される。

資本主義制度の根源は無限の経済成長を求めるシステムであり、技術的移転、空間的移転、時間的移転による外部化である。よって先進国の国民が帝国的生活様式を改めることはできない。また、グローバルサウスへの被害影響を意識的に止めることもできないと論ずる。

そして、その外部化の対象が地球上になくなってしまったのが現代という時代である。その被害は地球温暖化という形で先進国にもはね返ってきているのだ。


第2章では批判の対象を「グリーン・ニューディール(緑の経済成長)」「気候ケインズ主義」など環境問題の言論界へと向けられる。

そのひとつが「デカップリング論」。これは従来、経済成長と環境負荷は関係しているという見方を分離させるという考え方である。斎藤はこれを「生産性の罠」「ジェヴォンズのパラドックス」などを引用して無理筋であるとする。

だが、それは、自分たちの帝国的生活様式を変えることなく。――つまり、自分たちはなにもせずとも――気候ケインズ主義が持続可能な未来を約束してくれるからだ。ロックストロームに言わせれば、それこそまさに、「現実逃避」なのである。(p91)


第3章ではプラネタリー・バウンダリー論をさらに精緻化したラワースのドーナッツ経済論を取り上げ、環境経済議論をさらに詳細に論じる。ここでも批判の対象になるのは資本主義の根源的性質である。

資本主義とは、価値増殖と資本蓄積のために、さらなる市場を絶えず開拓していくシステムである。そしてその過程では、環境への負荷を外部へ転嫁しながら、自然と人間から収奪を行ってきた。(中略)利潤を増やすための経済成長をけっして止めることがないのが、資本主義の本質なのだ。(p 117)

本章ではさらに日本国内の知識人や言論界に対し批判が向けられる。いわく日本の言論人は「脱成長 vs 経済成長」という大きな問題を「団塊世代 vs 氷河期世代」問題へと矮小化してしまった。

それが日本言論界の環境問題意識である。つまり、日本の知識人は結局、資本主義を受け入れるところからしか議論をすすめられないのだ。


さて、第4章においてようやくマルクスが登場するのだが、斎藤は世間でよくあるような「共産党宣言」や「資本論(第1章)」から解くことはしない。斎藤は今日のマルクス研究はMEGAと呼ばれる「マルクス・エンゲルス研究」が中心であるとしている。

この晩期マルクスの研究ノートを含む研究によると、マルクスは晩期に思想的大転換を得た。それは従来の研究では常にマルクス思想の中心にあったとされる「進歩史観」と「ヨーロッパ中心主義」からの転換であったのだ。

斎藤は、その転換とは「ザスーリチへの手紙」と「ゴータ綱領批判」の再解釈から読み取れるとする。それは「脱成長コミュニズム」なのだ。


前章でこうした従来のマルクス思想の転換を指摘した上で、第5章では現代のコミュニズム思想界隈への批判を行う。

取り上げられているのはバスターニの「完全にオートメーションされた豪奢なコミュニズム」である。バスターニは地球環境問題はテクノロジーによって解決可能であるとしている。しかし、それは第2章で批判の対象となったグリーン・ニューディールや気候ケインズ主義と違いがない。

また、バスターニは選挙が社会改善に有効であるとする。しかし、それでは政治家や専門家に地球の行く末に関する決定・判断を一任することになる。それでは資本による包摂となんら違いがないではないか。

そこで斎藤は「市民議会」による市民からの意思決定を提起する。これによって従来の政治制度を刷新するべきであると主張している。


第6章は、いよいよ資本主義というシステムへの詳細な分析と批判が行われる。資本主義の根源的特性「本源的蓄積=人工的希少性の増大=囲い込み(Enclosure)」を分析した上で、<コモンズ>という社会のあり方、それによる「豊かさ」を対置する。

そして重要な考え方として「価値」と「使用価値」を挙げ、資本主義的価値である「価値」を棄却し、人間と社会本来にとって意味のある「使用価値」の復権を主張する。

マルクスの用語を使えば、「富」とは、「使用価値」のことである。「使用価値」とは、空気や水などがもつ、人々の欲求を満たす性質である。これは資本主義の成立よりもずっと前から存在している。
それに対して、「財産」は貨幣で測られる。それは、商品の「価値」の合計である。「価値」は市場経済においてしか存在しない。
マルクスによれば、資本主義においては、商品の「価値」の論理が支配的となっていく。「価値」を増やしていくことが、資本主義的生産にとっての最優先事項になるのである。その結果、「使用価値」は「価値」を実現するための手段に貶められていく。「使用価値」の生産とそれによる人間の欲求の充足は、資本主義以前の社会においては、経済活動の目的そのものであったにもかかわらず、その地位を奪われたのだ。そして、「価値」増殖のために犠牲にされ、破壊されていく。マルクスはこれを「価値と使用価値の対立」として把握し、資本主義の不合理さを批判したのである。(P 247)

そして、新しいコミュニズムとは「市民の共有価値である<コモン>を取り戻すことである」とし、さらに重要なことは、ここで言う<コモン>とは「消費」についてのことではなく、「生産手段について」としていることである。

昨今の環境論者が主張する「環境を意識した<消費>」にはなんの意味もない。むしろ「労働」や「生産手段」の<コモン>を取り戻すことが必須であるする。

私はすべての人々が囲い込まれて<コモン>から都市労働者へなったとは考えていない。中には過酷で息苦しい地方での人生・生活から逃れるために自ら生まれ育った土地を離れて都市へ移った例も多いと見ている。

新しいコミュニズムはそうした自由選択の結果としての資本主義の側面も考えるべきであろう。


第7章では「資本主義では民主主義を守ることができない。生産の場における労働者の自治が不可欠」とのトマス・ピケティの転換を取り上げる。

つまり、「消費抑制」のみを求め「労働のあり方」を考えないのでは資本主義にはいつまでも勝てない。そして「労働のあり方」を再構築するためには次の5つの視点が必要とする。

  1. 使用価値経済への転換
  2. 労働時間の短縮
  3. 画一的分業の廃止
  4. 生産過程の民主化
  5. エッセンシャルワークの重視(ブルシットジョブとの決別)

第8章では前章に挙げた脱成長経済の実例を挙げている。いわくバルセロナとフィアレスシティ・ネットワークの取り組み、メキシコ・チアバスのサパティスタ、ヴィア・カンペーシーナ活動、ワーカーズコープの取り組みなどである。

私はこの章で、特に「気候正義(Climate Justice)」という言葉に強く印象を持った。その反面、1章にあった「洪水よわが亡き後に来たれ」という言葉が思い出された。時間稼ぎからの決別が待ったなしであることが印象付けられた。

気候正義(climate Justice)という言葉は、日本語としては耳慣れない言葉かもしれないが、欧米では毎日のようにメディアを賑わせている。気候変動を引き起こしたのは先進国の富裕層だが、その被害を受けるのは化石燃料をあまり使ってこなかったグローバル・サウスの人々と将来世代である。この不公正を解消し、気候変動を止めるべきだという認識が、気候正義である。(p 336)


本書は複雑でわかりにくかった地球温暖化・環境についての各種の議論についてのオーバービューを提示してれたことにこそ大きな価値があるのではないかと思う。

本書の意見に同意するかどうかは別にしても、本書は一方の極であるという位置を確実にした。地球環境問題を考える上で必読の書であることは間違いない。